「名前」を笑ってはいけない
突然ですが私は自分の名前がとても好きです。親から与えられたモノの中で一番気に入っています…が、中東ではその名前で少し困ったことに。
名前には"tsu"という音が入っているのですが、この音がこの地域の言語にないことが多く、ちゃんと自分の名前を発音して貰えないことが良くあります。多いパターンとしてはTとSの間に勝手に母音を補い、"Tesu"になってしまうものがあるのですが、酷いときにはなぜか最初のTすら認識して貰えず、突如現れたEだけは残り"Esu"になってしまうことも。さらに"ki"という音もあるのですが、これは(私が聞いている限り)現地の発音にもあるはずにも関わらず"ku"に置き換えられてしまい、つまり"Tsuki(月)"という名前だった場合、勝手に"Esuku(エスーク)"にされてしまうのです。
もう10年ぐらい前の話になりますが、中東を旅していたとき、なんど訂正してもちゃんと呼んでもらえないので、もう呼ばれるがままに任せていましたが、やはり呼ばれるたびに違和感がすごくて、その時思ったのが芸名で呼ばれるってどんな気分なんだろうな〜という事でした。
さてその芸名ということで、年末の『笑ってはいけない』でプチ炎上したという記事を見ました。
https://news.so-net.ne.jp/article/detail/2126167/
そもそも人の名前をネタにする、ということ自体信じがたいですが、特に複数の言語をルーツに持つ人の場合、名前はとても大事で、ご両親からすればお子さんをどこでどう育てていくか、そして本人にとっても何人としてのアイデンティティを持つかに関わるとても重要でセンシティブな問題だと思います。身内が国際結婚したため、私にとっても身近な問題となりました。ちなみに私の知っているケースでは、日本に帰化した元外国人同士が日本で結婚したのですが(例えば日本国籍を取得したヨーロッパ系とアフリカ系の方が結婚するようなケースを想定してください)、彼らはお子さんに完全な和名をつけたそうです。
今回の件も、"加害者"側にしても全くあえて傷つけよう、という意図はなかったのだとも思います。 異文化圏で暮らしていて思うのは、こういった"傷つける言葉"って本当に分からないことが多いということです(同じ日本人同士でも、私は未だに京ことばの真意は分かりませんが)。だからこそ被害者が、加害者の最初の過ちは責めずに、自分にとっては「不快だった」といったことを、ちゃんと伝えていくことが重要なのだと思います。ただまあ、今回の件は、多くの人が確認する体制があったはずの、かつ大きな影響を持つテレビ局で、これまでに何度も言われていることを気づけなかったことに、弁解の余地はないと思いますが!
容認派の意見として多かったのは「日本では海外のようなひどい差別はないのだから、このぐらいのことで騒ぐべきではない。寛容であることが日本のいいところ」といった論調でしたが、私としては、むしろ逆ではないかと思うのです。なぜならばいま私は、本当に"一切譲歩できない究極の価値"を巡って、人間が対立して殺しあっている様を比較的近くで見ているからです(日本の学生さんに中東の話をすると、「話し合いで解決」とか「交渉」といったワードが出てくるのですが、残念ながら対立しているものが "一切譲歩できない究極の価値" のため、かなり難しいと感じます。この話は長くなるのでまた別の機会に…)。おそらく日本でなら、「寛容」という名のもとに見て見ぬふりをするのではなく、お互いがちょっと譲り合ったり気を付けたりするだけで、快適ではなくても生きていくことができるのではないでしょうか。その緩さが日本のいいところで、そうやって譲り合って、折り合いを見つけるのが和の精神ではないかと、中東に暮らす日本人である私は思う次第です。
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