野外劇『吾輩は猫である』
野外劇『吾輩は猫である』
作・原作 夏目漱石
脚本・演出 ノゾエ征爾
@東京芸術劇場 劇場広場前
2019/10/19〜29
10/28公演を見た!
“個の時代”なんて言われるいま。
オリジナリティだとか個性だとかそういうものが認められ求められ賞賛され、それを自由になったという人がいる一方でその息苦しさも確かに存在していて。前の方が良かったよねなんて言ってみるけど、ちょっと前の個性が抑圧され足並み揃うことが賞賛される世の中だって息苦しさはちっとも変わらない。
この世はとかく生き辛い。
でもだからと言って、個性を賞賛も非難もせず。「こんなものだよね」って差し出してくるような。これはそういう作品だったと思う。
見に行く前は、70名超の野外劇なんてまとまるわけなかろうなんて眉唾感満載で見に行ったけれど、この人数、場所、題材でやる意味がしっかりと生きていた。
池袋駅西口から、工事中の野外劇場を横目に見ながら進むと会場はそこだ。東京芸術劇場のロビーの前。きっともうこの先このシチュエーションでお芝居を見ることなんてないだろうな、と思いながらにやにや。5時の鐘がなるとともに開場となるのも、街中の野外劇ならではで嬉しい。そういえばこの鐘もいつぶりに聞いたっけ。なんだかんだ慌ただしく生きていて身の回りの些細なことに目を向けることの少なくなってしまったな、なんてひとりごちつつ席へ進む。
今作は夏目漱石『吾輩は猫である』を題材とした70名超の野外劇。チラシには「おぬしは何者である。」とのコピーが書かれている。いったいどんな作品なのか。漠然と、面白いかもしれないという勘で足を運んだので前情報ほぼなし。ノゾエ征爾さんの演出も初見。
作品は、くしゃみ先生の街頭演説のシーンから始まり(原作を読んだことがないので推測でしかないが)原作通りに筋は進んでいく...
と思いきや、にゃあにゃあと猫の鳴き声に次第にかき消され、舞台上には70余の猫たち。見渡す限り、顔、顔、顔、顔なものだから、三十三間堂の仏像の中には見たことがある顔がある、みたいな話を思い出したりした。人が並ぶだけで相当の迫力。ここですでにちょっと泣いた。マンパワーを目の当たりにすると泣いちゃうのなんでかな。
あれよあれよと猫たちの大騒動が鎮まるとそこにいたのは苦沙弥先生たち。「たち」とはいえどそこにいるのは苦沙弥先生だけ、でもある。つまり、苦沙弥先生役の数名の俳優。それぞれ交代しながらセリフを紡ぎ、先生のうち誰か一人が喋っているときは後ろでうなづいたり自由にそこにいる。
なんだこの演出、
と最初は面食らったけど、みていくうちにそれぞれに愛嬌満載で個性満載な、同じようでいて全然違う役者さんの演技が面白おかしくて釘ずけだった。
迷亭くんたち、寒月くんたち、鼻子さんたちらによって『吾輩は猫である』の話が進んでいくのだが、たびたび“たち”であることに登場人物たちの中でも疑問符がとんでしまい「おぬしは何者である」「にゃあ〜」と猫に戻って煙に巻かれてしまう。話もだんだんよく分からなくなってしまうけど、それでも役者さんたちの同じようで違う演技が面白くて全然飽きなかった。
この作品でとても印象的なのは、出演役者+楽器奏者+演出家総出でおこなわれる名乗りシーンだ。
「吾輩は〇〇である、名は〇〇である。」とひとりひとり順番になのっていく。
名も知らない役者さんたちの個性と彼らにも名前があるのだということが明らかになる。とても素敵だと思った。たびたびくすりとさせられる。
同時に、スーツだったり制服だったりの中に押し込められて個性は押しつぶされ記号化されて生きている我々だけど、「ものを想う心と自在な身体を持つ唯一無二の私なんだ!!!!」と街頭で鬨の声をあげるみたいな熱さも感じた。
10月末の冷たい風が吹き荒ぶ中での公演。体は凍えたけれど心は温まったような気がして会場を後にした。
Twitterでも書いたけどこちらでもこれで感想を締めたいと思う。
「私はアキデである。観劇が好きだ。今日はいいものを見た!」