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誰も傷つかないなどありえない

「誰も傷つかないなどありえない」。

当たり前のことを言います。
誰も傷つかないことなどありえないのです。

まず私の話からすると、私は6歳で母を亡くしています。結果、母に抱きしめられたり、運動会にお弁当を作ってくれる人も授業参観に来てくれる人もいませんでした。
片親の人全員がそう、とは勿論言いませんが、私にとって「家族愛」を見させられたり聞かせられたりするのは、非常に苦痛なことです。

私には毎週楽しみに聴いているラジオがあります。リスナーからのメールを読むコーナーで、ある時息子を持つ母親からこんな内容のメールが届きました。
息子が高校を卒業する時、正座をして「毎日欠かさずお弁当を作ってくれてありがとうございます」と言ったと。
それに対してパーソナリティは「良い話だね〜」とリアクションを取っていました。
私は「こういう話は辛いな」と思いつつも、何も自分を中心に世界が回ってるわけでもないし、ましてやこの手の話は一般的に「美談」とされているのだから、こんな日もあるだろうと思っていました。
しかし次の週も、またその次の週も、そのような家族愛のメールが読み続けられました。
私はさすがに抑えきれぬ不快感と憂鬱な気持ちになりました。何故同じような内容のメールを毎週読むのか?それは私の勝手な被害意識かもしれませんが、あまりにも苦しくてこんなに大好きな番組なのにしばらく聴くのをやめようとさえ思いました。

しかし私もまた同じようなことをしていたのです。
ある時弟が「俺は頑張れって言われたくない」と言いました。何故かと聞くと「頑張れって言われて頑張って、ある程度納得の行くゴールに辿り着いてしまったら、頑張ったと満足してしまってそれ以上頑張ることをやめてしまうから」と言いました。
またある時、アレルギー体質の人が、具合の悪い時に「大丈夫?」と心配の声をかけて欲しくないと言いました。またも何故かと尋ねると「お前に俺の辛さが分かるのか」とイラつくからと言いました。
またある時は、物事を一生懸命やる人に向かって「真面目すぎるからもっと適当で良いよ」と、気を抜いて楽になるように言ったつもりが、その人にとって「真面目」という言葉はコンプレックスで苦痛を与えていたのです。

話は変わりますが、私は「優しい歌」みたいなものが苦手です。
「頑張らなくてもいいよ」「泣いてもいいよ」などと言われても「そんなものは私が決める、黙っとけ」と思うのです。
それよりヒップホップのような、転んでも転んでも諦めんな、立ち上がれよ、泣いてる暇なんてねえんだ、甘えてんじゃねえぞというような歌の方が、よっぽど元気が出ます。
私は体育会系の部活に入ったことなどはないけれど、どうやら根性論が好きなようで、圧倒的に説得力のある拳でぶん殴ってくれと思っているし、そういう言葉に飢えています。

「人を殺すに刃物はいらず」というように、暴力的で過激な言葉でなく一見優しい言葉でも、人を刺すことはたくさんある。どんな言葉だってどんな表現だって、傷つく人と救われる人に分かれる。
だから私は諦める。自分が言葉を放った時、傷つく人がいることを仕方ないと諦める。諦めないと何も言えなくなってしまうから。冷たい人と言われようと、誰かと私は常に刺し違えてるのだから。

あなたを救った言葉が
誰かを刺してしまう街で
わたしが放った言葉は
本音を言えば誰のため

クロスワード/MIZ
死なせないために歌った歌で
殺しちまったことがあるんだよ

隠岐手紙/竹原ピストル

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