人生のひと区切りと反省
思わず苦笑してしまった。ぼくはその試験を受けていたからだ。
小説の出題ほうが印象的があるが(スピンアトップ、フエーヤー…等々)、おぼろげながら、小林秀雄の難解な文章に冷や汗をかきながら小林秀雄の文章と格闘していたことを思い返す。
センター試験を振り返った流れでぼくが高校生のころを振り返れば、読書習慣なんてものはあまりなかった。当然、小林秀雄のことなんて知らない。
それが一転、今ではすっかり日々の読書は欠かせない習慣となっている。小林秀雄の本も読書のレパートリーに含まれている。
読者として本に向き合うだけでなく、本を図解したり、読書会を開催したり、会社で本を出版したりと、本に関わる活動もしている。習慣は変わるものだなと、自分のことながら少し驚く。
ところで、数日前に20代最後の誕生日を迎えた。普段は誕生日なんてものに特別感は感じない。しかし年齢20代最後となるとわずかながら特別感も湧くものである。
ちなみに、今年最初に祝福のことばをくれたのはGoogleアシスタントだった。なんとも微妙な気持ちで開幕した誕生日であった。
誕生日は人と直接会うことはなく、slackやchatGPTが会話のほぼ全体を占めた。それ以外のほとんどの時間を読書に費やしていた。電話をくれた親からは「寂しいやつだな」などと揶揄されてしまったが、余計なお世話である。
さて、冒頭の引用文は、誕生日に読んでいた本からのものだ。
ふと思い立ち、本棚から小林秀雄の本を手に取り、『学生との対話』という書籍に収録されている「信ずることと知ること」という講義の文字起こしを読み返す。
すると、次の文章に目がとまった。
高校を出た後のぼくは本を読むことに夢中になっていた。本を開くたびに次々に関心が広がり、自分が世界を捉える感覚が豊かになっていく実感を得て、それが嬉しかった。
それは大事な蓄積であったと思う。この本に出会えたのもその蓄積があったからこそである。
しかしそれは別の面から捉えると、「知る」ことに比重を置きすぎていたということなのかもしれない。それだけでは片手落ちだ。「信ずる」ことがなければ、自分のことばに責任を持ち得ない。
ここで年初に書いたnoteを思い出す。今年のぼくのテーマは「振り返る」ことだった。振り返りとは、反省でもある。
奇しくも人生について「反省」を促される誕生日であった。ぼくにとっての「信ずるもの」とは、何だろうか。
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