「かぶく」ことの大切さ
こんにちは。ゆうきです。
先日、松岡正剛さんの『日本文化の核心 「ジャパンスタイルを読み解く」』(講談社、2020)という本を読みました。「ジャパン・フィルター」という筆者独特の視点を用いて、日本文化の成立過程やその正体について明らかにしていくといった内容です。コロナに揺れる今の状況と重なる話もあり、日本文化について改めて考えるきっかけになりました。
特に、「日本文化の真髄は、『おもかげ』と『うつろい』にある」という考えはとても興味深かったです。
今回は、本書で印象に残った話の一つである、「かぶく」ことについて紹介したいと思います。
「かぶく」とは
「かぶく」は漢字で書くと「傾く」となります。歌舞伎のという言葉の源にもなりました。傾(かたむ)いているわけですから、普通ではないのです。バランスが取れていません。松岡さんは、「いささか多様で、ちょっと大袈裟で、何かが過剰で、どこか異様なもの」と表現しています。
このような状態に自らなることを「かぶく」と言い、この状態の人のことを「かぶき者」と言ったりしました。
かぶき者の登場
かぶき者が登場し始めたのは慶長年間(1596~1615)のことで、出雲の阿国が四条河原で「かぶき踊り」を見せていたころ。髷を大きく結い、大きな太刀を腰に差し、ビロードを着たり、皮のコートを羽織ったりした派手な男たちも登場するようになりました。戦国大名の前田慶次は「かぶき者」としてとても有名だと思います。
「かぶき者」の中には、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけたりする乱暴な者もいましたが、その一方で仲間どうしの結束や信義を大切にしていました。田舎のヤンキーみたいですね。
時代が立つと、彼らの中から歌舞伎や映画のスターも誕生するようになります。
中世と現代での「かぶき」
松岡さんによると、江戸時代以前の中世から、「かぶき者」に似た連中は存在していたといいます。彼らは「ばさら」と呼ばれていました。派手な格好をして、大きな鉄扇をかざし、権威をあざ笑って風流を好んだ武士たちのことで、高師直や佐々木道誉たちが代表的です。「ばさら」とは「やり過ぎ」「派手すぎ」といった意味です。too much なのです。
中世は江戸時代の前の時代ですが、江戸時代の後、昭和や平成にも「かぶき者」はいました。松岡さんの好みで挙げられているのは、江戸川乱歩や鈴木清順、忌野清志郎、電気グルーヴ、いとうせいこう、アナーキー、椎名林檎、といった人物です。まあ、なんとなく分かります。
松岡さんはこの「かぶき者」や「かぶく」ということが現代の日本文化の活性化には必要だと述べています。
「かぶく」ことがなぜ必要か
松岡さんは、今日の日本社会は、コンプライアンスに惑わされ、仕事場や学校や家庭で too much を見せたらアウトの社会だと言います。極端を封じてしまっているのです。その結果、多くの現象や表現が衛生無害なものになってしまっているとも。
たしかに、近年はSNSなどが急速に普及し、他人を監視したり、他人と自分を比較したりすることが容易にできるようになりました。普通ではない、人と違う、所謂 too much なものがないか常に監視し、見つけたら報告、気にいらなければ批判。日本社会の特徴であり、受け入れがたい現実でもあります。これを踏まえれば、松岡さんの言っていることにも納得です。
松岡さんは、このように極端を封じることで、本当の「中道」が見えなくなってしまうということを、危惧しています。「かぶく」文化が too much だとするならば、その根底にある文化、それが「中道」だと考えられます。
現代社会における「かぶく」とは、新しいことに挑戦するとか、多くの人と違うことをするとか、そんなシンプルなことだと思います。しかしこれが封じられてしまうと、新しいものの底にある既存のものや、多数派のものも同時に廃れていってしまうということを松岡さんは警告しているのです。
親鸞の唱えた「悪人正機説」が良い例です。この説は、自分が悪を持っていることを自覚している人、つまり悪人こそ救われるという考え方です。仏様が救うのは悪人。悪人がいるからこそ、仏様の存在が強調される。そんな考え方もできます。
悪があるからこそ、良が際立つ。この悪は、bad の悪ではなく、too much の悪です。too much を受け入れることで、too much ではない文化も活性化される、そんな日本社会になっていって欲しいと思いますし、自分自身も too much の精神を忘れずに生きていきたいと思います。
そろそろ too much がゲシュタルト崩壊しそうなので、今日はこの辺で失礼します。
読んでいただきありがとうございました。