
【さとりとは#3】One Heart流 「さとり」の探求。エゴは人生のドラマをつくるのが好き。
こんにちは。
ピアノ講師、メンタルコーチの「One Heart」です。
このnoteは、有料マガジン『”差”取り(さとり)プロジェクト!ひとつの世界で生きる』におさめています。
さとりとは「”差”取り」だとわたしは考えています。
〈わたし〉という存在は、わたしとあなたは別人で、わたしは〇〇な人であなたは△△な人。
こんなふうに、わたしとあなたは別、という感覚があるのが普通です。
(脳はこういう捉え方をします)
でも、大きな全体性の意識、というのは、
すべてがひとつなんです。
人間としては、違う性格だし違う趣味や考え方をしているけれど、
大きな意識としては同じ。
だって、誰だって”死”に向かっているし、
誰だって感情はあるし、
仏教でいうところの「四苦八苦」は誰にでもおとずれる試練じゃない?
そうやって考えると、わたしたちが日頃から悩んでいる「悩み」というのはあくまでも”個人的”なものであって、全体からみたらとてもちっぽけなことなのかもしれません。
たとえば・・・、
宇宙飛行士の方の名言でこんな言葉があります。
我々は月を知ることで、
実は地球について知った。
遠く離れた月で親指を立てると、
親指の裏に地球のすべてが隠れてしまう。
愛する人たちも、
仕事も、
地球全体の問題も、
すべて隠れてしまう。
我々はなんと小さい存在だろう。
だが、何と幸せだろう。
この肉体をもって生まれてきて
この美しい地球で人生を謳歌することができて
まるで、お釈迦さまがさとった時のような場面が目に浮かんできます。
宇宙飛行士の方は物理的に地球を離れて月や宇宙へ行くことで、客観的にわたしたちが生きている地球を見て思ったことですが、意識の面もこれと変わりなく、わたしたちの意識は大きなひとつの意識から生まれているんです。
何度も言うけれど、「個」としては違うんだけどね。
人間という呼吸をして生きている存在、という意味では、
みんな同じなんです。
そんな意識で日常生活を生きていけたら、多少のお困りごとは、
「なんとかなるさ」と思えてくるのではないでしょうか。
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前回の記事はこちら↓
(前回の記事は無料記事です)
✧˙⁎⋆今回、本文の中で引用しているご著書はこちらになります。
エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」
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1.「エゴ(自我)」は人生のドラマをつくることが好き
わたしたちの目の前で起きるできごとは本当にドラマチックで、リアリティがありすぎるので、ついついその”ドラマ”に没頭してしまいます。
”ドラマ”とは、「エゴ」である「ほんとうの自分」とは別の「もうひとりのニセの自分」がそのドラマに出演して、人生の中で役を演じていることを例えています。
でもこれがわたしたちの「現実」。
まるで、「ドラマ」をみているかのように、他人事のようにそれをながめられたら、現実のできごとに右往左往しなくなる。
(ドラマは他人事としてみているから)
そしてその「ドラマ」には、
人それぞれの主人公のキャラクターがいる。
けっこう多いのが、「悲劇のヒロイン系」。
そして男性に多いのは、「ヒーロー系」。
たとえば、職場で仲間外れにされたことや
身近な人にバカにされたことのある人、
こんな経験をしている人は、
「悲劇のヒロイン」を演じていることがある。
「仲間はずれにされているわたし」、
「バカにされるわたし」、という
キャラクターになっている。
自分が演じるキャラクターのとおりに、
周りの人も接してきます。
(周りの人もドラマの登場人物)
でも私たちは、
特定の”こんな人”と断定できるような「存在」ではない。
もっともっと偉大で、
無限な存在。
限定した考え方に自分を閉じ込めてしまうから、
「悲劇のヒロイン」や「ヒーロー」を
演じたくなってしまう。
「演じている」ということに気づいたら、
そのキャラクターをやめることもできる。
「自分」という意識は、もっともっと深く広く、果てしなく存在している、
そんな感覚がしてくる。
エネルギーの波動も高くなり、
生命力もアップするんです。
2.世の中の生存競争で生き残るには?
思考って、自分自身ではないと前回のnoteで書いたんだけど、
じゃ思考力は、私たちにとって大事なものではないんだよね?
こんな疑問がわいてくるかもしれませんね。
思考力は、あくまでもツールにすぎません。
ほとんどの人の思考活動は、80〜90%が堂々めぐり。
ムダなだけでなく、ネガティブな性質のためにむしろ有害となっているんです。(堂々めぐりの思考活動がね。思考することではありませんので誤解のないように)
これは、「生命エネルギーの流出」の原因にもなっている。
思考活動におぼれてしまうのは、わたしたちは思考することによって、自分のアイデンティティを作っているから。
もうちょっとわかりやすくいうと、思考しているわたし=自分自身だと思い込んでいるから、ともいえます。
思考(脳)というのは、「頭の良し悪し」を自分の存在価値を測る尺度にしています。
考えないと(思考しないと)、自分は生きている意味がないと思い込んでいるからです。
わたしたちは、大人になるにしたがって、個人的、社会的環境に基づいて、
「わたし」という存在を定義していく。
これの定義は、言いかえると「にせの自分」であるともいえます。
この「にせの自分」は、またの名を「エゴ」という。
エゴは思考活動があることで、その存在が成り立っている。
エゴはたえず考えることによってのみ、生きられる。
エゴにとっては、「いま、この瞬間」というのは、ないに等しいもの。
過去と未来がすべて、といってもいいほど、エゴは時間に囚われています。
エゴは、「これが実現したら幸せになれる」とかたくなに信じています。
(これ、というのは人それぞれ内容が違います)
エゴは一見、現在に注目しているように見えますが、過去というフィルターを通して現在をみているため、現実がゆがんでしまっているのです。
エゴにとっては「いま、この瞬間(現在)」は、ゴールに到達するための通過点として捉えていて、「いま、この瞬間」の価値はほとんどないのです。
「いま、この瞬間」がさとりをひらくことのカギをにぎっている。
思考とひとつになっている限り、「いま、この瞬間」を見極めることはできない。
思考力とは、わたしたち人間にとって「サバイバルのための道具」です。
思考力が得意なのは、情報集め、情報の保管や分析、考えに対する防衛や攻撃です。
「さとりをひらく」には思考を超えたレベルに到達すること。
「意識」と「思考」をごっちゃにすると、
わけがわからなくなる。
「意識」は考えることではなく、「いま、この瞬間」の状態を知る心の動き。
「思考」は考えること。
分析したり、判断したりすること。
こうやってみてみると、
意識は広い意味だということがわかる。
エゴ(頭の中の声)は「思考」。
そして、「思考」は必要な時だけ使う。
この状態が一番創造力を発揮できるのかもしれない。
ふと湧いてくるアイデアとか、
自分の思考では考えられない枠を超えたものって、
「無心状態」と「思考状態」のバランスのいい時に出てくるのかもしれません。
創造力という産物は、思考が止まっているその瞬間にひらめいたものなのかもしれませんね。
とはいっても、思考することがダメなわけではありません。
うまく使おうよ、と冒頭でご紹介した本の中では言っています。
この内容についても、今後もっと深掘りしていきますね。
今日はここまでです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませ。
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