「カワイイ」の"覇"。サンリオ展で魂に焼き付けたキティちゃんという偉大な存在
現在静岡県でサンリオ展なるものが開催されている。
これに先日行ってきた。実に感動した。サンリオの「カワイイ」への求道心を甘くみていた。その熱い心の片鱗に触れることが出来て本当に良かった。
特筆したい点としてはやはり誰もが知るあの大物、サンリオが追い求めた「カワイイ」の究極の一つであるキティちゃんについてである。
特にキティちゃんの展示コーナーでは全人類が気にして止まない「ハローキティはどこへ向かうの?」という疑問に対するサンリオからのアンサーが出ていたのでこれは非常に強い感銘を受けた。
ちなみに展示品は全て撮影OKであったので随時展示の写真を載せていく。
「少女の代弁者」であり続ける存在
ハローキティというキャラクターを知らない人は限りなく世界に少ないはずだ。だが私もそうだが彼女がどんなキャラなのか深くは知らない人も多いのであろう。
知らなくて当然だ、そして別段知る必要もない。キティちゃんはストーリーがないからこそ輝く存在であると明言されているのだから。
これには非常に強い感銘を受けた。「カワイイ」にストーリーはいらない。感動も驚きも必要としない、ただ「カワイイ」それだけが心に染み渡る。
そう、余計な情報がないということは浅いということである。浅いということは多くの人がとっつきやすいことである。その浅さこそが美徳であり強さである。
ハローキティを愛した人は誰もが心に自分だけのキティちゃんを持つことを許される。キャラが固められていない、敢えて固めていない。だから寄り添いやすい、もっと言うのであれば自分の好きなように寄り添うことができる。
普段限界オタク沼に入り浸りキャラの掘り下げがあーたらこーたらとか言うことで魂の救済を成してきた私にとってこの思考はレヴォリューションである。
深い物語性だけが人を惹きつけるのではない。そこにあるのは解釈の自由、あるいは自己投影の多様性。それは即ちガチ恋オタクが魂の救済を成す時に用いる手法。
要するに固まっていないものはこっちで固めてしまってもいいよねという屁理屈である。それを寄り添いの手段としてこうも綺麗に美しくマスコットキャラへ落とし込んでいるとはと。
そしてその思考の自由こそが少女にとって必要だと言わんかのような毅然とした態度。「心の友達」という言葉の重みをしかと感じる事ができる。
これらの解釈の多様性、それは公式のキャラ設定からしてそもそも感じる事ができる。
展示されていたキティちゃんのプロフィールである。特筆したいのは6番だ。
【あなたはどんなりんごを思い浮かべる?】
これである。つまらない大人になってしまった者には永遠に辿り着けない領域である。りんごはりんごだろ、ではない。
キティちゃんの体重はりんご3つ分、だからどんなりんごを思い浮かべますかと。解釈の尺度をこちらに委ねているのだ。この常識に囚われない子供の心に寄り添うサンリオの魂の強さを見て取ることができる。
そう、解釈の多様性とはここに存在する。普遍的常識、凝り固まった意識そのものに対する問いかけ。あるいはそういったものがまだ凝り固まっていない者と同じ目線での語りかけ。流石にこれを見た時、言葉が出なかった。
ここまで寄り添えるのかと。ストーリー性を削ぎ落としてどう寄り添うのかと。
目線を合わせるのだ、それが答えだと言われているようだ。
あと何気に9番の趣味は最後の一文で浴びるほどのバフがかかり少女の習い事全般カバーできるようにしているのも流石だなと唸った。
キティちゃんの抱く、寄り添いやすさと感情移入の多様性はこのようにブームになっても揺らぐことはない。むしろその間口の広さとただ一つ揺らがない純然たるカワイさを持ってして「代弁者」という立場すら手にしていた。
私はここにこそキティちゃんが人気たるその真髄があるのだなと感じた。
キティちゃんは色々な格好をする。ヒカキンとのコラボを見たことあればXジャパンがどうのこうのも見たことある。オタクの記憶だとゆるキャン△のコラボもあったな。きららファンタジアの亡霊としてはこのゲームとのコラボがあったことも記しておかねばならない。
これらの一見奇抜なコラボに対して「仕事を選ばない」といった意見を目にすることがちらほらある。
その通り、彼女は極力仕事を選んでいないのであろう。それは前述した寄り添いやすさの維持に他ならない。時代の歩みと共に人の好きの形も多様化し、加速している。
だからこそ「仕事を選ばない」のだろう。多くのキティちゃんを側に置く者の心に寄り添う為に多くの人の好きを抱きしめているのであろう。
上記の考察を踏まえると「大人になったらカワイイは卒業」という言葉の重み、それを打ち砕かんと闘い続けたキティちゃんの険しき道のりを思うと涙が止まらない。
そしてこれらの果て。ブームを起こし世界的人気キャラになり、なお前へ前へと歩むキティちゃんはどこへ向かっているのだろう。その疑問に対してサンリオはアンサーを用意してくれていた。
そう、何も変わらない。アップデートを続ける不変、それが答えであった。「女の子の代弁者」であり続ける、これが絶対であると言うのだ。
だから時代のブームとニーズを取り入れどんどん新しいことをやっていく。いろんなコラボもやっていく、一見なんだこれはというコラボも全てが寄り添いに繋がっていく。
あまつさえ彼女は我々のような女の子でないオタクにすら寄り添ってくれる。それは私たちからの歩み寄り、魂の肯定でもある。キティちゃんはカワイイ、俺が胸を張ってそう肯定してもいい。そんな世界を彼女は構築してくれているのだ。
その事実に気づいた時、頬を伝っていたものは失われたはずの煌めき。かつて心の中で恥ずかしがってキティちゃんを肯定することができなかった哀れな魂のカタルシス。
私の魂の救済もまた、彼女が持つ懐の広さによって成された。
【SHOW BY ROCK!!】のオタクとしての得たもの
これはサンリオ展とは直接関係のない話ではあるが、同じくサンリオが送る【SHOW BY ROCK!!】のオタクとしてどうしても触れねばならぬ話である。
キティちゃんにて知ることができた「カワイイ」への想いと彼女の寄り添い。ショバロにもいるな、かわいいに対してストイックな生物が。
そう、過去幾度となく話をしている私の愛して止まないロージアちゃんのことである。
とサンリオ展においてロージアちゃんへの造詣がより深まったことはかなり大きな収穫であった。
彼女はかなりキティちゃんをリスペクトした存在なのだなということを感じられた。まずモチーフが白い猫だな。
何よりも彼女はかわいいに対して非常にストイックだ。それでいてわがままだ。これは単なるキャラ付だけではない。ここにもカワイイに対する肯定が入っているものだと感じた。
キティちゃんでは出すことの出来ない苛烈さ、優しく包み込むだけでないもっと上へ、もっとかわいくを追求する存在。それもまた少女の在り方として自然である。そういったキティちゃんではゆりかごとなり得ない「カワイイ」への受け皿になっている。
わがままやストイックとカワイイは両立する。それもまた「カワイイ」の形である。ここにサンリオが求めた「カワイイ」の多様性、その神威が宿る。
そういった点でロージアちゃんもまた、非常にサンリオらしい魂の籠もったキャラなんだなと感じた。
【SHOW BY ROCK!!】全般に言えることだがあまりキャラの深い部分、特にバックボーンが描写されにくいという点がある。それらも恐らくは前述したストーリー性が薄いからこその感情移入のしやすさを重んじているのだろうなと感じた。
元々ロージアちゃんのことが大好きだったのでそのオリジンとも言えるキティちゃん、ひいてはサンリオそのものに対して知見を深められたことは大きな収穫であった。
そして再度認識する、やっぱりロージアちゃんのことが好きなんだな、と。
「カワイイ」を追い続けること
もちろんサンリオ展なのでキティちゃん以外にも様々なキャラがいる。そして恐らくはそのどれもが誰かにとっての「キティちゃん」なのだと思うと全ての展示ブースで胸が熱くなった。
私の行った時間帯は特にマイメロとシナモンのブースが人気であった。
いちご新聞なる強めの聖遺物を読むことをできた。なかなかどうして時代の産物ということもあり読み応えあり面白かった。
最後のブースを締めくくるもの、それはやはり「カワイイ」に対する想いであった。世界中の誰でも理解できるものを追い求める、簡単なようでなんと奥深く難しくそれでいて気高い探求なのだろうか。
ただのキャラクター造りではない、そこには美しい魂が宿っている。だからこのように世界中で愛されるキャラクター達を多く生み出すことができたのだ。
そんなサンリオが作り上げた土壌と軌跡を目の当たりにして心が震えた。
私にとってのロージアちゃんがそうであるように世界の人には自分だけの寄り添ってくれる「カワイイ」が存在する。そんな事実だけが世界との繋がりを実感させてくれる。
サンリオ展、それは魂への問いかけ。これから得る出会いと失ったものを取り戻す旅。キティちゃんに深く触れることでしか人は魂のカタルシスを成すことは出来ない。
だからサンリオ展で今一度失ったものに触れ、教えて欲しい。
あなたの、思い浮かべる「りんご」はどんなものかを。
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