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【自分史】大人になるまでのあれこれ

生い立ち


地主の家庭に生まれ育った。裕福だった。
祖父は、父親のいないわたしのために
大きな家を建ててくれた。

中学から大学まで私立だった。

ランドセルは馬革の数十万するものだった。
運転免許を取ったら新車を買い与えられた。
ありとあらゆるお稽古事をさせてもらえた。

私立の医学部に行かせてもらう予定だった。
だけど、学力が足らなくて看護学部に進んだ。


富豪ではないけど、誰がどう見ても
豊かに見えたと思う。
日々の暮らしは慎ましいものだったが、
お金に困らずに育ててもらった。


苦労して資産を築いてきた親は
それを誇りにしていた。
親なりの愛だった。


だけど、家庭内はいつも緊張があった。
そして、大体はわたしを理由にして
突発的に紛争が起こった。


神経質な子どもだった。
靴下のつま先にゆとりがあると気に入らなかった。
握っている鉛筆の先端が気になりそわそわした。


とにかく神経症的な不安を抱え、
ずっと空気を掴むような手応えのない
感覚に襲われていた。


母の期待に応えようとしてきた。
でも、わたしがいくら頑張ったところで、
母の不満は止まらなかった。


わたしは悲劇のヒロインを
演じ続ける母の、カウンセラーだった。


大いなる祖父の存在

祖父は多趣味だった。

戦後昭和の時代をダンプカーのように
走り抜けた祖父は、40代でひと財産築き、
趣味に生きていた。


私が幼少の頃から畑を耕し、
夏は川へ行き、冬は山鳥の
ハンターに行くので、


家では納屋にこもって網を編んだり、
銃の手入れをしたりしていた。


ハンターへ連れて行くために
猟犬を飼っていた。


珍しい鶏を観賞用に飼い、
週末になると地方へ鶏の品評会に
連れて行ってもらった。


祖父との幼少の思い出で
強烈に残っているのは、
ハンターに同行したときのことだった。


仲間と水辺を囲い込み、一発目、
銃声に驚く山鳥たちを羽ばたかせ、
羽ばたいた鳥を散弾銃を放つ。


弾に当たって鴨が落ちると、
待ち構えていた犬が池に飛び込み、
鴨を拾いに行く。


いつも家でのんきに寝ている犬の
勇敢な姿を見た。


山の中で、祖父に「撃ってみ」と言って
ライフルを渡された。

後ろから私に覆いかぶさって、
手を添えてくれた。


向こうの山に銃口を向け、
引き金を引くと、ドン!っと私の薄い胸に
ライフルのお尻が跳ね返って強打した。


あのとき受けた衝撃、
そしてこだました山びこが
今も体に残っている。


山道を歩きながら木いちごを拾った。
美味しくなかった。


家では拒食ぎみに小食なわたしが、
山ではおにぎりを何個も食べた。


さとがおにぎりぎょうさん食べたんや、
と家に帰ってからも祖母に話して
喜んでくれた。


今思えば、家族の中で一番
健全な愛をくれたのが祖父だった。


祖父の存在が私の感性やものの見方に
大きく影響しているのは言うまでもない。


祖父は、人に教え、与え、分配した。


畑の野菜も人に配りすぎて
家で消費する分が残らず、
いつも祖母にブツブツ言われていた。


お金に困るとやって来る親戚に
ポンと札束を渡していた。
何でも一括で買った。


お金はその人の在り方を拡大する物だと
アンソニーロビンズが言っていたが、
本当にその通りだと思う。


祖父は太陽星座が射手座だったが、
まさに射手座的なスケールの大きさだった。



祖父は背が高く、暴れん坊将軍の
松平健にそっくりだった。


サングラスをかけ、角刈りで、
やくざと間違われるからと言って
外車には乗らなかった。


周囲は祖父を成功者として
一目置いていたし、
よく議員やその秘書も訪ねてきた。


祖父と一緒に出かけると、幼いわたしは
無敵のプリンセスのような気分だった。


告別式では祖母が喪主を務めたが、
わたしが跡取りということで
参列者に挨拶をした。


参列者の前で話しながら思った。
祖父が大好きだった。


臨月で離婚した母のお腹の中にいたわたしを
「大学まで行かせたる」と言って、
育ててくれたのは祖父だった。


「揉め事が起こっても、祖父が行くと
その場がおさまった」 という
本当に暴れん坊将軍だった話を聞いた。


「おじいちゃん、素敵な人だった」という
心のこもった言葉がけを頂いた。


国会議員の参列や著名人の弔電もあり
「有名人と知り合いなら教えてよ」と
親戚に言われた。


祖父は自分の畑の自慢はしたが、
自分を大きく見せる自慢を
絶対にしなかった。

大きく見せなくても、偉大だった。


しかしそれは晩年に向けた社会との
関わり方の話であり、家庭では違った。


祖父は社会的な成功をそれなりに治め
自由を得たが、家を治められなかった。


祖母の不自然さ


祖母は若い頃美しかったようで、
祖父と大恋愛をして
周囲の反対を押し切り一緒になった。


占星術の12星座は人の発達段階を表している。


自分を投げ打って恋をするというのは、
獅子座的な生命力の表現であり、


獅子座で生きるということは、太陽の獲得、

要するに命がけで生きることへの決意になる。


しかし、私は祖母から、その生命力を
感じたことがなかった。


祖母は、家庭的ではないという
レベルを通り越して、
自他に対しネグレクトだった。


祖母は太陽が乙女座なのだが、
乙女座は隅々に意識を配る星座であり、


太陽を獲得しているなら
自己への無関心はあり得ない。


何が言いたいかというと、
大恋愛をした夫婦の築く家庭で
あるにも関わらず、


非常に社会主義的で、封建主義で、
血が通っていなかった。


祖母は、音もなく近づいて、
人の行動をこそこそ覗いた。


部屋にいる時や、出かける時も、
窓や扉の薄い隙間から覗くように監視した。


それが、気持ち悪くてたまらなかった。


家の外では立派だった祖父も、
家の中では祖母の顔色ばかり伺っていた。


祖母は来客があると上品に
機嫌よく振る舞うが、
家庭ではいつも子どもが
拗ねているような振る舞いをしていた。


家の前で近所の子どもと遊んでいると、
窓の外から見下ろして、
「借家の子と遊ぶな」と言うような祖母だった。

そんな祖母の言い草に
わたしはいちいち傷ついていた。


だけど、祖母は資産の管理が上手だった。


祖父一人では財産を築けなかったということを
後に家族のホロスコープを眺めながら
しみじみと思ったほど、

祖母の素質は祖父を助けたと思う。

なので、なおさら祖父は、
祖母に頭が上がらないのだった。


犠牲になった母


祖父母の生活は、娘である私の母を
犠牲にすることによって営まれていた。


祖父は家事を始め、自分の趣味の
後始末や手伝いを母にさせた。


飼っている鶏はどんどん増えて、
100羽にも増えたことがあった。


祖父は、後始末のできない人だった。


母の人生でターニングポイントで、
最大のトラウマは、結婚だった。


見合いで母の中学の同級生を祖母が気に入り、
婿養子をもらうように、結婚を強いられた。


あとで相手の実家に
飲み食いの借金があって
母が断ろうとしたところ、

祖母が「婿にもらう」と言って
聞く耳を持たず、


そこに祖父が「一度言ったら撤回するな」
「借金の何が怖いんや」と
祖母の肩を持ったことで

母は諦めるしかなかった。


相手には借金があり自宅を
差し押さえられていたようで、
「籍が汚れるから」と入籍もしなかった。


結婚式は、式場を全館貸し切って、
市長まで招き、 盛大に行われた。


景気のいい時代、祖父母も若く、
お金があり、勢いがあった。


結婚式で、祖母は「孫が産まれたら」
「跡取りが」という話をしていたそうで、

母は、式場の階段から落ちて
死のうかと思ったらしい。
だけどできなかった。


ひな壇でなるべく一緒に
居たくないからという理由で
5回のお色直しをした。


今では考えられないバブルの時代。


母は夫の借金を返していた。

祖父母の紹介で夫は知人の会社で働いていた。


そしてある日、その知人から母は、
夫が長靴の中にお金を隠していることを
知らされる。


母は、相手の遊んだ借金を払わされながら、
なおも遊ぶためのお金を
隠している夫を許せなかった。


母はその時身ごもっており臨月だった。

「別れてまえ!」と言ったのは祖父だったという。


祖母は泣いていたそうで、
「気にしてるから、(祖母に)何も言うなよ」
と祖父は母に言い放ったらしい。


一番傷ついているのは
人生を翻弄された母である。


それから母は両親への憎しみ、
男性への軽蔑、
自分の青春を奪われた悲しみを
抱えながら生きていくことになる。


歪んだ家庭の苦しさ


まもなくして、私が産まれた。

産まれてすぐの写真には
「父親のいない子を産んでしまった」
という後悔の涙を浮かべる
母の姿が残っている。


祖父母は跡取りの誕生を喜び、
母の退院を待たずに
石切の占い師の元へ行き名付けられた。

「この名前は跡取りになる」と言われたらしい。

そのエピソードがきっかけで
私は占いを大嫌いになる。

それから私は祖父母に可愛がられながらも、
緊迫した家庭の中で、母から過去を語られながら
母の寂しい背中を見つめて育つことになる。


「お母さん、半分棺桶に入ってるから」
が母の30代からの口癖だった。

結婚式の日から、半分死んでいる
という意味だった。


⁡母と祖母は、いつも私をきっかけに喧嘩をした。
⁡⁡
例えば私がピアノを練習しないので母が怒ると、
母に対し祖母が注意をする。

すると「孫はかわいいな」と祖母に嫌味を返し、
「あんたは良いな」と私に言い放つ。

母と祖母の問題を子どもの問題に
しているに過ぎないが、

目の前でそれをやられると
子どもは自身や生きる気力を失っていく。


母は祖父母を責め続け、
実家は猫屋敷になっていった。

家が広くてよかった、とも言ってられず、
20匹以上に増えた猫を捨てるぞ!と
脅迫する祖父母から

猫たちを守るためにテラスに囲い込んで、
2~3日食事を取らなかったこともあった。

母なりのボイコットだった。

私が食事を運んで持っていくと、
「食べんでも死なへんわ!」と
叫ばれて参ったのを覚えている。


猫屋敷とゴミ屋敷は同じような心理構造で、
実際、猫が寿命で死んでいなくなったら、
ちゃんとゴミ屋敷になっていった。

家の状態は心の反映なのだ。

小学生の頃だったと思う。

祖母と母が食事をしながら口論になった日、
母が立ち上がり包丁を持って
廊下に走っていったことがあった。

階段に座り込み、自分に突き刺そうとする母を、

祖父母が追いかけ、取り押さえて、
包丁を取り上げた。


私はその時、慌てて、
警察に電話しようとした。


すると、「消防ですか?救急ですか?」と聞かれ、
「間違えました」と受話器を下ろした。


私はただ呆然として、
嗚咽してむせび泣く母を眺めて思った。


どうして、この家庭はこんなに不自然なんだろう。

この家の苦しさは、どこから
生まれているんだろう。


その原因がわかるのは、
ずいぶん先のことになるのだが、
私の幼少期からのテーマだった。


そんな母は、私を通して
自分の人生を取り戻そうとするように
なっていった。


私の成功をもってして、
祖父母に母自身の価値を
証明しようとしていくのだった。


夢と無気力


母は看護師になりたかった。⁡

当時は正看護師の学校が名古屋にあったそうで、
そこに行きたかったが、

一人娘が家から出ることを許されず諦めた。


私は母から「お母さんのように
不幸にならないように手を職を」
と植えつけられていたので

⁡幼稚園の頃は「看護師さん」だったが

小学生になれば「お医者さんになって
おじいちゃんの病気を治したい」
と言うようになり


国家資格を得るために10歳から
医学部進学の準備を始めることになった。



中学は医学部のある大学の付属を選んだ。

今考えれば併願の教育大付属に行けば
あんなに苦しまなかったかもしれない。


私は子どもには「何になりたい?」とは
聞かないようにしようと心に誓っている。


「何になりたいか」では職業に制限されてしまう。

「どう生きたいか?」という
問いかけをすべきと思う。



とにかく本をよく読む子どもだった。

緊迫した家庭からの逃げ道は、
小さい頃は本の中しかなかったし、


欲しいものを買ってもらった記憶はないが、
本を読むと母が喜んで、与えてくれた。


ある時漫画を読んでいると、
「読書が好きな子だと思っていたのに」
と言われてうんざりしたことがあった。


太陽が双子座にある人は、
基本的に知的好奇心を満たすことで元気になるし、

風通しや雰囲気がよくない場所では
息がつまる思いがする人が多いだろう。


職場の同期に「風のようだ」と
言われたことがあるが、
まさにその表現は正しい。


だから自分の好奇心を満たすために
読むのは目が輝くが、

親のために読んでいるという
不自由さに気づくと、

途端に嫌になってしまい、
その後本を読まなくなってしまった。
⁡⁡

親は子の個性を知っておかなければ、
意図せず意欲を奪うことになりやすいから
気をつけた方がいい。



家庭では、母からの過干渉、
祖母の気まぐれと監視、
祖父は母を犠牲にした上での自由を得て、


それに対する母の軽蔑を込めた
悪口雑言にまみれていた。


祖母は一日中テレビを見続けていて
椅子から動かず、

母は祖父の趣味の世話や後始末が
あることを言い訳にして
祖母のいる空間から逃げまわり、

決まった時間に食事をしたことがなかった。


私は、心の置き場所がなくて、
頭がおかしくなりそうだった。


この苦しみは結婚、出産した後にまで続き、
その後ヨガや瞑想を通して
肉体と心に打ち込むことに繋がる。


思春期の逃亡

思春期に入ったわたしは、
すでに中学受験で燃え尽きていた。

家庭では冷戦と紛争を繰り返していて、
とうとう母は家出をした。

中学生以降は死に方ばかり考えていた。
人はなぜ、どうせ死ぬのに生きるのか。


中学3年のある日、山本敏晴さんの
シエラレオネの子どもの
写真集を見て衝撃を受けた。

日本のわたしは何不自由なく暮らしているのに
死んだ魚のような目をしている。

一方で貧しい国の子どもの目が、
どうしてこんなに輝いているんだろう。

写真にうつる子どもの肌の色が黒いので
そう見えたのかも知れないが、
目の奥に生命の躍動を確かに感じた。

それが世界の貧困に関心を持つきっかけになった。


高校生の時になると、学校を休むようになった。
歩き回ったり、予備校の自習室に行ったりして
時間を潰した。
好きに過ごしたかった。逃げ場が欲しかった。


17歳の時、尿路結石と急性肝炎で2回入院した。

体が弱く、成績が悪いので、と
なぜか母は占い師のところへ相談に行き、
わたしに改名を勧めてきた。

さとみという名前は祖父母が
占い師に聞きに行き、「これこそ跡取りだ」と
言われて付けられた名前だった。

それを変えろと言うので、親の身勝手さに呆れた。

戸籍名は変えなかったが、学校に
登録している名前を変更させられた。
その時のわたしには抗う気力すらなかった。


インターネットの世界に逃げるようになった。
没入した。


自殺したい人や自傷癖のあるたちが
集まるチャットや、掲示板を
見るようになった。


夜な夜なチャットでメッセージのやり取りをした。
⁡そのおかげでタイピングが早くなった。


そこに書き込むのは、
10代から40代までの男女様々だった。


そのうちそこで悩みを聞くのが
日課になっていた。


客観的な視点で言語化されることや、
承認してもらえることが救いになるようで、
死ぬのを踏みとどまってくれる人がいた。

お医者さんになるなら精神科医になってねと
言ってくれた人もいた。

どのくらいの助けになったかは定かではないが、
私もそこで効力感を得ていた。


だいたいの人は、家族関係に悩みを抱えていた。
⁡でも一見何の問題もなさそうに見える人もいた。


共通して、みんな孤独だった。


人は自然の中に生かされている存在であり、
孤独な人など本来誰ひとりいない。

だけど心がエゴに向かっていくほど、
自分を責め、孤独になっていく。
⁡⁡
いま、孤独な人が多いのは、
自分の体ですらつながりを感じにくく、

自分を責める通りに他人を責めて、
エゴにとらわれやすい社会にあるからだろう。

夜な夜な人の心の悩みばかり聞いていて
わたしは家庭や受験から逃げていた。


大学受験が始まると、
母親のコントロールがひどくなり、
隣家に家出をして数日間、
面倒を見てもらったことがあった。

「なんでなんやろうなあ、
何も不自由ないやろうに…」
おばちゃんは不思議そうだった。

外から見れば、何もかもに
恵まれている裕福な家の子。


受験の日の朝、ごはんに鮭を焼いて出してくれた。
おばちゃんが優しくて、泣きながら頬張った。


母から、ただのわたしでは
許してもらえないことに、
ほとほと疲れていた。


挫折と劣等感


医学部受験は全滅だった。

「浪人はさせない」と言う母の勧めで
一つだけ受けた聞いたこともない大学の
看護学部に首席で合格した。

わたしは怒り狂いながら
入学式の代表挨拶を読み上げた。


わたしは、母の夢をわたしの体で叶えた。
自分の人生をわたしでやり直そうとする母に
猛烈に怒りが込み上げた。

そして、無念さ、虚しさ、戸惑い、
どこかで安堵している情けなさ…
とてつもない劣等感が噴き出した。

しかしその劣等感はその後
凄まじいエネルギーとなった。


学生ながら大阪と東京を行き来して
国際協力のイベントの立ち上げに参加した。

あらゆる大学のあらゆる学生たちと交流した。
テラルネッサンスの鬼丸さんなど、
色んな団体の活動を聞きに行った。

なぜか京都大学の社会学のフィールドワークにも
参加させてもらった。
海外にも1年で4カ国行った。

看護にはまるで興味がなかったためそっちのけで
教養の授業を楽しみ、課外活動と
部活の練習に励んだ。

初めて解放を味わった。
意思を持って動くことを知った。
でもその頃の原動力はまだ
「劣等感」だった。


助産師への重い扉


3年生になると看護学部では実習が始まる。
さらにわたしは助産学も専攻していた。
その動機は「取れる資格は取っとけ」くらいだった。


その助産学実習で自分の課題と
直面させられることになった。

「母と子」というテーマはわたしの心の
やわらかい部分をえぐった。

わたしはマザコンで、
母なる優しさに飢えていた。

だから実習はコンプレックスを刺激した。


実習先でどうにも動けなくなるわたしを
見かねた大学の先生は病棟の廊下の隅に
連れて行き、そして詰め寄った。

「その煮え切らない態度は一体どこからなん」

「・・・トラウマがあります」
口を突いてでた言葉だった。

すると先生は、こう言った。

「助産師になろうなんて人はな、
それなりに色々抱えてるわ。

それでも今ここまで来た以上、
やるしかないねんから。

人のためと思って精一杯やりなさい」


今思えば、助産師としての姿勢や覚悟を
定めさせたかったのだと思う。

「そうなの?みんな、色々事情を抱えているの?
こんなに辛いのは、わたしだけじゃないの?」

そんな疑問が頭に浮かんで、
しばらく先生の言葉が頭から離れなかった。


それから国家試験を経て、
助産師として就職をした。

最初は3年くらいで辞めたら海外にでも行って
好きに生きてやろうというつもりだった。

ところが入職すると当時の師長さんに
「ここで一人前になろうと思ったら
7年くらいかかるかな」と言われ
な、7年・・・?とショックを受け、
それからあらゆる出会いと別れを経て、
かれこれ12年が経つ。


転換期


この12年を振り返ると、
人生の転換を迎えたのは、
27歳のときの祖父の死からだった。


27歳になったばかりのわたしは
祖父の死を契機に、人生の歯車が
大きく動き始める混乱がこの先
やってくることを知るよしもなかった。


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