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最近読んだ薄い本

 薄い本といっても同人誌ではない。これまでさんざん書評が書かれ称賛され続けてきた外国文学のうち、特に薄くてすぐ読めそうなものを最近読んでいる。どれも日曜日の午後に読み終わるほどの分量だが、果たしてこれまで名作として読み継がれてきたのが納得の作品ばかり。なぜかフランス文学ばかりになってしまったが、これは意図したものではない。

『夜間飛行』(サン=テグジュペリ)

 サン=テグジュペリ自身の飛行機乗りの経験を活かしたリアリズムにあふれる作品。夜間飛行という当時は危険きわまりなかった事業の中で浮き彫りにされる、人間の尊厳と勇気が主題となっている。
(Wikipediaより)

 サン=テグジュペリといえば、やはり『星の王子様』が有名なのかなと思う。『星の王子様』は大学生の頃に読んだけど、『夜間飛行』を最初に読んだのは高校生の頃。その頃は近所の地区センターで受験勉強をしていたわけだけれど、その時に片手間にパラパラと読んでいた記憶がある。冒頭の支配人・リヴィエールの普段の勤務の様子と、到着したパイロットたちが夜の街に消えていく描写だけ覚えており、読破した覚えはない。

 最近引っ越してきた家の近所に図書館があるためなんとなく手に取って読み始めた。その結果、高校時代に読んでいたところはまだまだ序盤に過ぎないことを知る。全部を通して読んでみると、実は映画『ダンケルク』のような構造となっていることに気付く。『ダンケルク』は陸、海、空のそれぞれの時間軸があり、最後に収束していく構成を取っている。『夜間飛行』はリヴィエールがいる地上と、必死に飛行機を操縦するファビアンが乗る上空の二軸で進んでいく。その合間にファビアンの到着を待ちわびる妻子や、次の飛行機のパイロットなどが登場する。

 飛行機の『空』の時間軸が存在するためぱっと思いついたのは『ダンケルク』であるが、章ごとに交互にリヴィエールとファビアンが切り替わる構成は小説でいうならば青豆と天吾が切り替わる『1Q84』(村上春樹)的ともいえる(途中に二人以外の章があるのも似ている)。また、解説によると時系列については考察の余地があるとのこと。それ以外にも面白い考察が載っているのでぜひ解説まで読んで欲しい。

『異邦人』(カミュ)

冒頭1行目の「きょう、ママンが死んだ。」という訳も有名である。
(Wikipediaより)

 冒頭、ムルソーは養老院に預けていた母親が死んだ葬式に出席する。遺体が安置されている部屋でコーヒーを飲みつつ一夜を過ごすが、あまりに暑く涙すら出て来ない。ここで特に感情を示さなかったことで後々に糾弾されることとなる。葬式の翌日は旧知の女性と映画館にデートに行ったり、まるで「母親が死んだばかりとは思えない」行動をとる。

 アパートの粗暴な友人を助けた結果、アラブ人と因縁が生まれ、結果ビーチで出会ってしまう。その場は立ち去るが、その後恐らく護身用に持っていた銃を片手にアラブ人と出会い、そして殺してしまう。その日も暑い日だった。そうしてムルソーは逮捕され第一部が終わる。

 第二部は裁判劇で、検事はひたすらムルソーが感情のない恐ろしい(反キリスト的な)人間として死刑を求刑する。途中、あまりにも母親の葬儀で涙を流さなかったことを言及され続けて「私はアラブ人を殺した罪で裁かれているのか、それとも母親の葬儀で涙を流さなかったことで裁かれているのか」とムルソーは言う。

 今でも、例えば「悲しいことがあったのにその後なんでもないように生活しているのはおかしい」と後ろ指さされることがある。ただ人間の感情はそこまで単純ではないし、内心については他人は察するしかできない。これら「悲しいことが起こった後は相応の行動をとるべきだ」という圧力は現代でも存在し、この小説のテーマは今にも十分通じると思う。

 余談だが、個人的に同じカミュの『ペスト』は「本屋で手に取るけど結局買わない本」第一位。読みたいことは読みたい。

『悲しみよこんにちは』(サガン)

題名はポール・エリュアールの詩「直接の生命」の一節から採られている。17歳の少女セシルがコート・ダジュールの別荘で過ごす一夏を描く。(Wikipediaより)

 集中すれば数時間で読み切れるもので、なぜかアメリカのティーンズ映画のような読感があった。新訳のおかげかとても70年前の本とは思えないほど現代に舞台を移しても通用すると思う(現代のフランスの制度的な観点はおくとして)。基本的には主人公・セシルの一人称視点で話は進むが、途中三人称視点も入ってくるのが自由だなと思った。

 主人公・セシルの無鉄砲さ・天真爛漫さはまさにティーンズ映画の女主人公!という感じなのだが、ところどころの心理描写で繊細な一面も描かれる。奔放な生き方をしてきた親子が聡明な再婚相手・アンヌの登場により「型を嵌められる」ことを怖れ反抗する。本来一番身近な大人である父親レエモンが子供のままのため、この物語には大人といえるキャラクターはアンヌ一人しか登場せず、彼女は主人公を抑制する存在である。

 ひと夏の反抗は功を制するものの、最後は「悲しみ」によって終わってしまう。「失ってから初めて大事だったと気づく」というのは『ベルセルク』しかり万百の物語で繰り返されてきた悲劇の典型だ。

 サガンは流行作家で日本では"硬派な読書家から冷遇されてきた"が"実はみんなかくれて読んでいた"作家であると解説されている。"Hello Sadness"は"Hello Darkness My Old Friend"になったり、"Goodbye Happiness"になったり、いろいろと引用されている。

次回予告

 いま手元には『田園交響楽』(ジッド)、『恐るべき子供たち』(コクトー)がある。しかもなぜかまたフランス文学だ。そしてもちろん薄い。これらも読み終えたら感想を書こうと思う。

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