ネル・ノディングス著(佐藤学訳)『学校におけるケアの挑戦ーもう一つの教育を求めてー』|読書記録18
読書記録18冊目は、ネル・ノディングス著『学校におけるケアの挑戦ーもう一つの教育を求めてー』。
概要
ネル・ノディングスは、現在の教育は、①統制的、②可能性を尊重していない、③女性とケアを結びつけている、として批判する。
教育目標が一つに定められ、教育現場ではその方法しか工夫することができない。知識を得させるだけの標準化された授業は各生徒のニーズを満たしているのか?と疑問を呈する。
ノディングスは、教育は生徒と教師の間でケアリング関係が築かれ、
決まった内容を学ばせるのではなくて、各生徒の欲求にあった内容を教えるべきである。生徒の学びたい欲求を満たそうとした内容でなければ、生徒はそもそも学ぼうとしないだろう。
そして、生徒のケアリング能力を発達させることを目指した内容であるべきだと主張する。
ケアというと、人間に対してだけだと思われるが、環境や生物、地球、もの、美術にもケアは関わってくるのだ。
ノディングスのいうケアとは何か。
ケアリングは、ケアする人Aがケアされる人Bに対して、
何らかのケアを提供し、Bがそれを認めたときに完成されることだ。
その際、ケアする人は専心と動機の転移が条件となる。
専心:注意。自分を空にして対象に没頭すること。
動機の転移:助けたいという欲求。
ケアリング関係は相互的で移り変わるのだ。ケアをする/されるは固定的な関係ではない。
そして、ケアリング関係においては、相手の道徳的成長に責任を持つのだ。
感想
3点のことを考えていた。
①「ケア」を教育の中心にする弊害
ケアを教育に持ち込むことは重要な視点だろう。
学校にSSWが設置されるなど、学校に求められる福祉的な役割は年々高まっていると思う。
子どもたちのだれもが繋がる義務のある学校でしか気づけない福祉的ニーズがあるはずだ。
一方で、それを中心に据えるとはどういうことか。
ノディングスはいわゆる五教科の学びをすべての生徒に与えることを否定する。また、ケアリング関係で重要なことは「例示」であるとして、相手の行動に何らか道徳的に間違っている点があるとしたら、直接指摘するのではなく、何らかの媒介を通して例示的に伝えるべきだと言っている。
それはむしろ生徒の可能性を減らし、まっすぐに人と対峙する経験をなくしてしまうのではないか。
五教科の学びに改善点があるのは確かだが、その学びをなくしてしまうことは、そもそも現代社会にある多くの仕事や生業への理解する一歩目を歩めないことになってしまうのではないか。
そして、自分の内面課題とまっすぐに向き合う、それをともにしてくれる人や経験をなくしてしまうのではないか。
②結局、こうあるべきを一つに定めてはいないか?
ノディングスは教育目標を一つに定めていることを批判した。
生徒によって目的目標は異なり、多元的な設定が必要だといった。
一方で、ノディングスは個別的な差異を軽視して、こうあるべきを導いていたと思う。
そもそもアメリカのことだけを書いているし、障害者に関する記述はほんのわずかで基本的には健常者しか想定されていないような書きぶりだし(たしかに人によってできる/できないがあることは当たり前と書いてあるけど、障害ほどの差は想定されていないように思う)、伴侶がほしいと誰もが思うだろうと書いてあるし。
その上で、ケアとは〇〇だなどは適宜述べていた。
はたしてノディングスは一元的目的主義から脱していたのか?疑問である。
③結局、本質主義ではないか?
ノディングスは本質主義を否定している。
補章において、ケアは自然な愛から発生し、善から出発すると言う。
しかしながら、ノディングスは、ほとんどの人間が伴侶をほしいと思っているといったり、出産を通して保護的な愛の自然が始まるといったり、本質主義ともとれる発言を繰り返している。
そもそも善が人間に宿っているとしている時点で、本質主義ではないか?と思う。(ノディングスはプリミティブな善だとしている。)
まとめ
以上、今回の本は個人的には批判的に読み応えのある内容だったなーと思う。
ノディングスはあえて一般化・抽象化しない書き方をしている。
ケアリングとは一般化・抽象化ができないことだからだ。
その点は評価できる一方で、結果的に明らかに一部分を取り出した書き方に過ぎず、簡単に批判される点がいくつも残ってしまっているのではないかと思う。