100ページで媚薬に変わる読書
初めて読む作家の小説は、最初の50ページがいつもしんどい。〈息苦しいな…〉と思ったら、実際息をしていなかった。1行、1節、1章ごとに、休憩を挟む。そして深呼吸する。
慣れない文章を読むという行為は、頭脳の負担なのだ。
小説は、書き手のクセがすべての文章に乗っている。その文章すべてが脳に血をにじませて書いた「魂」なのだということを、ジャンルは違えど文章で生活している私は知っている。
彼らが生み出した魂を、時間をかけて受け取るのが、私の読書ポリシーである。ゆえに、私の読書は、とても遅い。
特に、最初の50ページ。
初めて読む作家の作品は、最初の50ページを祈るように読んでいく。
どうか芯がある文章であってくれ、スマートな構成であってくれ、好みの話であってくれ…
慣れない文章を、期待と祈りを込めて1文字ずつ追う時間は、苦しさに満ちている。
残念ながら、世の中には上っ面だけの小説がある。文章の上手・下手ではなく、雰囲気でごまかそうとして中身がない文章を並べている小説が私は嫌いだ。こういうのは、作家の自己満足が優先されており、たいてい50ページで見切りがつけられる。反面教師として勉強材料にする場合を除き、それ以上読むことはない。
また、単に文章や価値観が好みではないということもある。好みというのはどうしてもあるので、誰が悪いわけでもない。しかし、好みではない本を読み続ける必要もないから、やはり読むのをやめる。好みではないケースも中断するのは50ページあたりだ。
読んでみなければ分からないのが、読書の難点である。しかし、50ページで判断できるのは読書の良さでもある。ドラマで言うと第1話が、小説の最初の50ページに相当するだろうか?
初めての作家の文章に触れ、脳に負荷をかける読書は、筋トレとよく似ているように思う。
50ページを過ぎると、文章にも慣れてきて、少しずつ楽になる。50ページジャッジを超えた精鋭だ。信頼も深まっていく。
そして、読書が「脳トレ」から「娯楽」に変わるのは、100ページあたり。
脳の中でナゾの快楽物質がドバドバ放出されはじめる。これがクセになるのだ。そして以降の文章は、もはや媚薬である。
一度好きになった作家の本は、50ページの苦行が必要ない。だから好きな作家の小説ばかり読みたくなるけれど、それだと「初めての作家の読書ハイ」を味わうことができない。
私は、「好きな作家3:初めての作家1」くらいの割合で読書することにしている。
好きな作家ばかりでは脳に刺激が少ないが、かといって「初めての作家」ばかりになると、ハイ状態が続き「活字中毒」のリスクが高まってしまう。活字中毒は、経験上、みんなが想像する以上に日常生活を破壊するから、「ほどほど」を大切にしたい。