馬に乗って単独シベリア横断を成功させた情報将校・福島安正~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(5)
第5回は単騎シベリア横断に成功した明治時代の冒険家・軍人である福島安正です。
◇福島の「冒険」は情報収集活動だった
◇エピソード 馬に乗って単独シベリア横断を成功させた情報将校・福島安正
◇日本人の誇り
◇参考文献等
◇福島の「冒険」は情報収集活動だった
福島安正は明治時代の軍人です。
嘉永5年(1852)年に信濃国・松本に下級武士の子として生れました。あのペリー来航の前年です。江戸の旗本のもとで兵式の訓練を受け、明治時代になると郷里へ戻って狙撃隊に入りました。その後、東京でドイツ人の下、翻訳などを試み、語学の腕を伸ばして27歳で陸軍歩兵中尉に任じられました。この冒険後に中佐に昇進。最後は陸軍大将にまでなっています。
福島安正は語学に堪能だった点が買われ、情報将校として活躍しました。福島の「冒険」は重要な情報収集活動だったのです。
以下のエピソードで取り上げた有名な「シベリア単騎横断」は2回目(1892年)の冒険です。1回目(1886年)はインド・ビルマ方面でした。3回目(1895年)は予定していたトルコには入れませんでしたが、ペルシャ・アラビア・インド等でした。現役を退いてからは「わしは自分の国のことをまだ知らないではないか」と母国・日本を旅したそうです。
◇エピソード 馬に乗って単独シベリア横断を成功させた情報将校・福島安正
今から130年前の明治時代のことです。
明治25(1892)年2月11日。ドイツのベルリンを旅立とうとする一人の日本人がいました。日本陸軍少佐・福島安正さんです。福島さんはたった一人で馬に乗り、ヨーロッパから日本まで広大なシベリアを単独で横断しようと考えたのです。
そのルートはドイツのベルリンを出発してポーランドのワルシャワへ。そこから北へ向かってロシアのペテルスブルグそしてモスクワへ。その後、ウラル山脈とアルタイ山脈を越えて清国へ入り、再びロシア領のバイカル湖に近いイルクーツクへ。アムール川渡ってもう一度清国へ入り、満州の地から日本海沿岸のウラジオストックへと至ります。
これには世界中が驚きました。「そんなことできるわけがない」「危険すぎる」など多くの人はこの冒険に反対しました。なぜならば、このルートには極寒の山、灼熱の砂漠があり、人も住まない無人の荒野を何日間も通らなければなりません。しかも、安心して眠れる場所はわずかで、飢饉で食料がない村や盗賊の出没する所もあるからです。
しかし、福島さんには重大な使命がありました。当時の世界は強い国が弱い国を植民地にするのが当たり前の時代でした。その中にあってアジアの小国である日本が生き残っていくためには諸外国の実状を正確に調べ、それをもとに国の進むべき方向を計画すること必要です。インターネットはもちろんテレビもラジオもないこの時代に正確な情報を得るためには人間が自分の目で確かめることが重要だったのです。
この冒険へ挑戦はドイツのすべての新聞に掲載され、ヨーロッパ中に伝わりました。福島さんが通過する町や村に住むドイツの人々はこの無謀とも思える大冒険に挑戦する日本人を温かく見送ってくれました。
大森林に入ると雪が溶けた水で道は泥沼。ようやく道に出ても雪解け水があふれ馬が怖がり歩けません。しかたなく馬を下りて膝までつかって歩きました。
ある時は40度近い炎天下の中を行くうちに呼吸困難と吐き気に襲われました。人も馬も耐えられなくなり、昼に寝て夜に行動することにしました。林の中で蚊の大群やハチ、アブ、ハエに襲われることもありました。
山の中では巨岩がそびえ、大小の石が横たわっています。谷底を見ながら削られたような崖を歩いたこともあります。雪が降り始めると吹雪となり、目の前さえも見えない状態になり凍った岩で馬が足を滑らせる危険もありました。
零下30度の極寒の地では栗毛の馬の毛が氷結し、まるで白馬のようになりました。福島さんも全身が氷のようになり、手足が痛み、感覚がなくなったこともあります。
宿泊地である村でコレラが発生していたこともあります。たった3日間で44人が死亡。コレラは馬が走るよりも速く伝播すると言われ、行く道はすべてコレラ患者であふれていました。14日後、ようやくコレラのない村へ着くことができました。
この苦しい旅の中で温かいもてなしをうけることもありました。ウラル山脈の麓の町では駐屯しいているロシアの軍楽隊が「君が代」を演奏し市民がこぞって福島さんを出迎えてくれました。またエカテリンブルグでは知人の手紙で福島さんことを知り、声をかけてくれた工場経営者から歓待を受けました。アルタイではこれから危険な場所へと進む福島さんを励まそうと騎馬隊の男性だけでなく女性までも馬に乗って見送りにきてくれたこともあります。
途中、親切なキルギス人の案内人と苦しい山越えをした福島さんは清国の役人の助けを借りて休養をとろうとしましたが、なんと役人に「規則にないので助けることはできない」と言われてしまいました。さらに、そこにいた通訳は空腹の福島さんに安物の肉を高い値段で売ろうとする始末です。しかも、肉はキルギス人には食べさせない言うのです。これに怒った福島さんは「案内人に食べさせないというなら私も食べるつもりはない」と拒否し、持っていたパン粉とお茶で飢えをしのぎました。
いよいよ旅も最終段階へとさしかかったときに事件が起きました。凍りついた川の上を進むこと数キロ。すで日は暮れています。案内人のソリが横を通ったときに馬があわてたために跳ね上がり、福島さんは氷上に転倒。頭を強く打って気を失ってしまったのです。気づくと頭の傷に自分の小指が入ってしまうほどの大けがをしています。出血が止まりません。福島さんは死を覚悟しました。
しかし、そこへソリに乗った案内人が無人の馬を見て驚き、助けに戻ってきたのです。福島さんはなんとか近くの小屋へたどり着きました。その小屋の主人が3時間かかって医者を呼んで来てくれて、21時間後に血は止まり、九死に一生を得たのです。
ケガが回復した福島さんは最後の行程である満州に入りました。途中、盗賊の多い地域をなんとか通り抜けた福島さんはついにゴールのウラジオストックへ到着しました。全行程1万5千キロ。488日という日数をかけて大冒険の旅はこうして成功したのです。
この1年以上かけての旅の中で、福島さんは各地の地理、町や村に住む人々の生活を観察し、小さな村に駐屯する各国の兵士と親しく語り、その国の国民性や兵隊の実状を調査しました。こうした地道な情報収集がのちの日本の対外政策の大事な判断材料になった言われています。
*この教材は<特別の教科 道徳>「A・主として自分自身に関すること」の「希望と勇気、努力と強い意志」に関連します。
◇日本人としての誇り
福島安正の「シベリア単騎横断」は本人自身の筆による手記『単騎遠征』でその波乱万丈の冒険を知ることができます。筑摩書房刊の『世界ノンフィクション全集3』(昭和35年初版)で読むことができますので、ぜひご一読下さい。
この『世界ノンフィクション全集3』の「解説」を書いている荒正人氏はこんなことを書いています。
「なお、全体を通じて、日本人としての誇りを強くもち、未開人や土着の人間にたいして優越感をもっていた点も特色である。これは、背後に、明治の日本という新興国家の息吹をかんじることができる。いろんな言語を話す人間の間にはいって行っても少しも臆していないのは、語学にたいして自信をもっていたせいもあろう。若々しいナショナリズムの所産と見ることができる」(p521)
確かに読み進めていると、日本人である自分や他の民族を馬鹿にした態度をとる異国人に対しては強い態度で臨むエピソードが数か所出てきます。その一つを紹介しましょう。
「一人は余をさしてオロス(ロシア人)なりとののしり、無礼にも余の膝に腰かけた。余は怒りのあまり、彼を一蹴し、憤然と立って鉄ムチをふるえば、彼らは辟易して、仰ぎ見ることもできぬ。人の弱きを見れば暴を加え、強きに向かってはふるえ上がる」(p481)
当時はこうした人種差別が当然のように行われていたのでしょう。これに対して強い意志と断固たる態度が必要なのは現在も変わらないかもしれません。
◇参考文献等
*福島安正「単騎遠征」『世界ノンフィクション全集3』(筑摩書房 昭和35年)
*篠原昌人『陸軍大将福島安正と情報戦略』(芙蓉書房 2002年)