クラスの一体感の功罪・小さな教育情報
原武史氏の著書『滝山コミューン1974』(講談社文庫)をご存知でしょうか。タイトルからは想像しにくいのですが、教育書と言ってもよい内容の一冊です。
ただし、この本が異色なのは当時は小学生だった著者が大人になってから書いた子どもの目から見た教師の実践批判であるという点にあります。
1970年代の東京。「革新」色の強い地域のある学校で「全生研方式」(全国生活指導研究会)の学級づくりが熱心に実践されていました。その当時この学校のあり方に強い違和感を感じていた原少年のドキュメントです。
どんな違和感なのか。数カ所引用してみます。
「当時の私が抱いた最大の違和感は、なぜ子供が背伸びして大人のまねをしなければならないのかというところにあった。何が「民主主義」だ、「民主的集団」だ。子供は子供らしくすればいいではないかー」(p179〜180)
「それぞれの班の方針の問題点をたたかわせながら、もっとも弱い班の方針に集中し、その班が答えられなくなるか、その班の弱さが明らかになった時点で、議長が「消去法」を導入し、班会議を開いては、一つの班ずつ落としていく。挙手による「消去法」をとることで、どの班が「もっとも弱い班」か、つまり「ボロ班」かが白日のもとにさらされる」(p232)
「朝倉はまず、九月の代表児童委員会で秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の「罪状」を次々と読み上げた。その上で、この場できちんと自己批判するべきであると、例のよく通る声で主張した」(p298〜299)
「民主的集団」「ボロ班」「自己批判」…ある年代の方には懐かしいことでしょう。これらはすべて左翼の闘争用語もしくはそこから派生して生まれた言葉です。
氏はこうした民主的と称する左翼思想に染まった全体主義的な教師の実践に反感を持っていたのです。
現在、60歳で現役を退いている私は、この本を読んで「懐かしい」と思うと同時に「恐ろしい」と感じます。
私が教師成り立ての頃も全生研方式を熱心に実践している人はいました。ただ、やや廃れ始めていたと思います。しかし、もし私があと10年いや5年早く教壇に立っていたら、同じことをしていたのではないかと「恐ろしさ」を感じたのです。
では、今はどうなのか?
すでに全生研方式は過去のものとなっています。とくに「ボロ班」指導に代表される子どもたちの人格を否定するような実践はできない時代になっています。全生研方式は消えましたが、この原少年のような「違和感」を感じる子どもは本当にいなくなったのでしょうか?
私はギリギリで全生研とは深く接触せずに済みましたが、現役時代に「仲間」「絆」「協力」といった言葉はキーワードにしていました。もちろん、これが間違っていたとは思いませんし、学校の教師がこうした価値観を大事にするのは当たり前だと思っています。
しかし、自分の現役時代を振り返るとキーワードにこだわって、特定の子どもに無理をさせてしまったり、不要な我慢を強いたこともあったのでは?と反省しなければならない過去を思い出します。
子どもに「一体感」を求めるあまり、子どもに「違和感」を持たせてしまっていないか?客観的かつ冷静な目で見ていく必要があると思います。
こうして当時の子どもに批判されるというのは教師にとって辛いものでしょう。ほんの数行ですが、原氏が「実は見直されるべきものが含まれているように思われる」「決別したはずのコミューンの記憶が、言い知れぬ懐かしさを伴って胸に迫ってきた」などの言葉があると正直ホッとする元教師の自分がいます。
集団と個ーこれは教師にとって永遠に答えのない問題かもしれません。
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