詩とわたしの距離 10/25(金)詩をたくさん食べる会@HANABIに寄せて
距離感、という言葉で思い出すのは、昔からぼくが方向音痴で、それがためか、ある地点へ赴く所要時間の見積りが異様に下手なことだ。それはたぶん普段から時間や距離を気にして生きておらず、そういった情報があんまり蓄積されていないから起きていることだと思う。
ぼくは、詩について考えることはあるつもりだが、自分からどういう距離感なのか、気にして生きているんだろうか。きっと、今の時点では十分に気にできていないんだろう。
今回、「詩とわたしの距離感」について書いてみることで、その距離感感覚(なんだこれ、距離感を感じるフィーリングってことだと思う)の誤りを把握してみたい。間違えてみないと、正しいところまできっといけない。
誰かに見てもらうことを想定した文章を書くことが久しぶりだ。
自己紹介をしていなかったことに気づく。むっぽと言います。
Communicative bar HANABIという、高田馬場にある少し変わったバーで働いている27歳の男性です。
詩・ことばに触れる機会 として、歌を作っていたり、日記を書いていたり、短歌をSNSに投稿したり、などを保有しています。
今日このnoteを人様に見えるところにおいているのは、来る10/25(金) 19:00-23:00に、我らがComunicative bar HANABIにて、詩のイベントをやるからです。
詳細はこちら。https://x.com/bar_hanabi/status/1842155097817809129/photo/1
同じくHANABIのスタッフである、来世さん(詩を書き本をつくる人)とともに主催をやる。
このnoteは、ありていにはダイマ(ダイレクトマーケティング)のために書かれている。来てくれ。楽しいから。楽しさを提供できるように我々もやっていくつもりだし、楽しむつもりのあなたが来たらそれはきっと薪を火にくべるようなもので、楽しくなるから。
それに、以下の文章では、そこそこ美辞麗句を並べてしまうと思う。だって文章だから。もう少し、生身で、リアルタイムで話せると嬉しいから、来てくれるとうれしい。ぼくがうれしくてなんなんだ、とも思うけれど、僕がうれしいと嬉しいあなたを期待したい。
また、ぼく自身のもろもろについても、これを機会に見てくれると、嬉しい。
さあ、本題に戻ろう。
間違えてみないと、正しいところまできっといけない、というのは、ここ何年かのぼくが大事にしようとしている価値観である。
これらの感覚がために、いわゆる社会人になった後で、歌を作ったり、日記を公開してみたり、短歌を書いてみたりしている。
これらは、ぼくにとって実験で、「多くの事物は、雑に触ってあげることで、ゆくゆく大事に触れるようになる」という仮説を立証するためにやっている。
それでいくと、詩、どうだろうな。
### 鑑賞するとき
つまり、自分以外の誰かがうんだ詩については、非常に大事だと思う。読んで好きだと思えたものについては、なるべく近づいてみたいと思ったり、そのすくい取り方にハッとしてみたりする、と思う。正直、それでも「共感できる」とはあまり思わなくて、「難しいなぁ」「何言ってるんやろ」と思う。それでも、ことばが持つイメージとか、人間の理解力ってのはすごいもので、いいものはいいもんだと思わされてしまう。
→ 大事にするつもりもあるが、ある程度の距離感を意識しないと、責任でつぶれそうになる気がする = 雑に触ってしまっていい。むしろ、雑に触ることでハードルを下げ、いつかのぼくの理解が少しでも進むことを期待する
### 創作するとき
・今は、粗雑に触ってしまっていい。たとえば、言うだけなら言うだけだと思う。作る自分のことはとっても大事だし、大事にしてやりたいと思うが、「自分の納得のいくもの」みたいな非常に抽象的なものを追い求めやすい(少なくともぼくは)。
であれば、こちらも結局、作ってはおいておき、作ってはおいておくしかない。幸い、紙だって電子データだって、かさばるものではない。
なんとなく気持ちがいい日だと思ったら作って、新Xで腹立つことがあったら作って、でもいい。
一過性の気持ちとして消化するな、みたいな言説もあるが、消化してもなお残るものをこそ、自分の肉体だと思う。
ゆくゆく振り返るためにも、出力はしておかないといけない
うーん、粗雑にまとめるなら、
「詩とわたしの距離感」は、
「いつかの私を大事にするために、今のわたしは詩と乱雑にぶつかってよい」なのかもしれない。
悪友にでも、なりませんか。ダメですか。そうですか。
近所の絡んでくるおっさんみたいな感じで、引き続き接していこうと思います。どうぞよろしく。