8:高校の友人たちと「冒険でしょでしょ」/平野綾
通っていた高校は田んぼのど真ん中、東を向けば地平線、西を向けば冬には富士山が見えるといった按配のだだっ広い大地の、コンビニが1軒と、ちょっとした商店街以外何もない場所にあった。
友達は男子がほとんどで、ねえさん・あねさん・姐御など、年齢の上下問わず呼ばれていた。
そういう系統のキャラ作りを意図してたといえばしてた。性別を感じさせないように常にしていたから。
何故そんなことをしていたか?
男友達と一緒に馬鹿や乱痴気騒ぎをやろうと思ったら、男女を意識させないよう遊びつつも、性別は尊重する/させる、という難しいバランスを保っている立場でいなければならないからだ。
元からあけすけで大雑把、粗暴な性分なので、その弁えをこなすのは簡単だった。
とはいえ、相手を異性だという意識を0にまで振り切ってしまい、友人の目の前で制服から体操着に着替えようとボタン3つ外した瞬間は、しまったぁ!と
「着替えたら廊下に行くから!!」
と必死になった。
後に
「涼宮ハルヒの憂鬱」
のアニメ版で、ハルヒがクラスメイトの視線を気にせずに着替えを始めるシーンで
「あの時の彼はキョンのような心境だったのだろうか…」
と、申し訳ない気分になった。
放課後に普通の高校生らしく遊ぶとなると、バスか自転車で大きい駅まで行くしかない。
私は自転車通学で、駅とは逆の方向が通学路だったから、滅多に駅方向に行かなかった。
その代わり学校の近所で真っ暗になるまで、友人たちと遊んでいた。
セブンティーンアイスとベンチのある場所でしょっちゅうたむろして、贅沢したい時は、当時、激安店のファミレスとして有名になりだしたばかりのガストに行った。
試験やイベントの終わったあとは、皆でどやどやとカラオケに行き、ランチタイム料金をフルに使った6時間歌った。
まあ、変わり者と指差されつつ、田舎町によくいる高校生をしていたのだ。
私と全く同じ通学路、というか、私の家の前が通学路の友人が2人、五月君と芹沢君がいた。
彼らと一番良く遊んだ。
かなりユーモラスな2人だった。
ユーモラスといえば聞こえがいいが、正直、トンチキと言った方がしっくりくる。
芹沢君は遅刻や欠席を補修で、赤点を追試やレポートで難を逃れて卒業したが、毎年毎年留年の崖っぷち、しかもそれは
「学校には勉強をしにきてるわけではないから」
と、頭痛のする理由からだ。
五月君は一見なんの特徴もないのだが、読書家で、何かにハマると、とことんやり尽くすまでやめなかった。
担当の先生が好きだからと日本史の学科を志し高得点をとり続けるも、夏休みに初代ポケモンにはまりこみ、宿題すら手をつけず2学期を迎えていた。
卒業後、中島らもの影響でドラッグに興味を持ったのは、いーかげんにしやがれ?と私が叱った。
彼らとは帰り道、農道を自転車二人乗りで、2人同時に両方の手を離して何秒間走行できるか試して、私は計測係になったり、3人で好きなマンガや本を持ちより、放課後私の家で読書会が開かれたりした。
晩秋の田んぼの野焼きで暖を取りながら、真っ暗な中、何とはなしにオレンジの火が小さくなるまで話をしたりもした。
その時に話して今でも良く覚えている内容は
「人類が火に当たって暖を取るという手段を覚えたのは、進化のいつの段階だろうか?」
を、拙いなりに議論しあった時だ。
数年前、帰省しかつての通学路を通ったら、田畑は随分小さくなり、代わりに家が並んでいた。
学園都市として再開発され、入居者は後を絶たない、と母から聞いた。
野焼きを囲んだのはもう25年前の出来事で、もう禁止されているから、若い子たちからしたら、中年の青春に聞こえるだろう。
キラキラした遊びではなかったけれど、あのヘンテコな放課後は、私を少なからず作っている要素だ。
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