「オリジナリティーの高い小説」だけが持てる価値&投稿サイトでのサバイバル術
前回の記事の中で「投稿サイトではオリジナリティーのある作品よりテンプレ作品の方が人が集まる」ということを書きましたが…
なぜそうなってしまうのかと言うと、1つには「オリジナルな世界観は、まず設定を理解することから始めなければいけない」という理由があるかと思われます。
「テンプレートな世界観」――つまり「オリジナリティーが低い」ということは「どの作品を読んでも、だいたい設定は一緒」ということです。
読者が「今までに読んできた作品」で既に設定を理解できているなら、新しい作品で設定を「覚え直す」必要がなく、スッと物語に入っていけるのです。
一方の「オリジナルな世界観」では、読者は1から設定を理解し、覚えていかなければなりません。
そして、ここで鍵となるのが、作者の「解説力」と読者の「理解力(読解力+知識力)」なのです。
■作者は読者を選べない(読者の理解力はどうにもできない)
過去記事で「作品の評価は読者の理解力に左右される」ということを書きましたが…
「読者の理解が得られないと評価されない」のは紛れもない現実ですが、作者は読者を選べません。
「自分の作品を理解してくれる読者に読んでもらいたい」といくら願ったところで、それが叶うかどうかは「運」であり「ガチャ」でしかありません。
作者にできるのは「どんな読者が来ても大丈夫なように、解説力を上げておく」こと。
理解力の低い読者でも世界観や設定が理解できるよう「分かりやすい解説」「充分な説明」を心がけることです。
昨今「ごんぎつねが理解できない子が増えている」など、子どもの国語力の低下が取り沙汰されていますが…
読解力の低い人間は「行間を読む」ことが苦手です。
登場人物の「動き」や「行動」だけで「間接的」に物事を表現されても、あるいは「比喩」で心情を表わされても、それを汲み取ることができません。
「はっきり直接的に」「そのまんま」の表現がされないと、理解ができないのです。
しかし、そんな読者に理解してもらおうと直截的な表現ばかり使うと、今度は小説としての「情緒」がなくなります。
そして悪いことに、ある程度「国語力の高い」人々の中には「文章のレベル」で早計に作品の評価を決めつけてしまう人がいます。
「自分より国語力の低い人々」のことが想像できず、それゆえ「そういうレベルに合わせて書かれた文章」に理解が及ばず、「文章が平易過ぎるから、作品のレベルも低いに違いない」と決めつけてしまうのです。
子ども向けの童話でも絵本でも、大人向けの作品を凌駕するような素晴らしい作品は山ほどあるんですけどね…。
「適切な説明」を表す言葉に「過不足のない説明」というものがありますが…
理解力がバラバラな不特定多数の読者へ向けて「過不足のない説明」をするほど難しいことはありません。
理解力の低い読者に合わせて「解説レベル」を設定すれば、理解力の高い読者には「過剰な説明」になり、その逆をすれば「不足」になります。
正直この点については、自分もまだ「こうすれば良い」という答えを見つけられてはいません。
一応「試行錯誤」の一環として行っているのは「作品ごとに読者のターゲット層(年齢・理解レベルなど)を設定し、そこに合わせて解説レベルを調節する」といったことくらいです。
■「退屈なだけの説明パート」をどう処理するか?
以前、とあるラノベの新人賞の選評で「説明というのは退屈なものだから…」という一文を読んだことがあります。
(おそらく「説明ばかりだと読者が退屈してしまうよ」的な文脈だったかと思いますが、うろ覚え。)
それを読んで自分が思ったのが「そっかー。じゃあ、説明を入れる時には『工夫』をした方が良いんだな」でした。
「説明ばかりでは退屈になる」と言われても、オリジナルな世界観・設定を「説明」無しに理解してもらうことはできません。
ならば、その説明が「退屈」にならないよう「工夫」すれば、「退屈だから」「読むのが面倒だから」と言って読者が離れることもなくなるのではないか…そう思ったのです。
「オリジナリティーの高い作品」でつまずいている作者は、まずこの辺りを意識できていない方が多いのではないかと思われます。
そもそも人間という生き物は、興味の無いことにはとことん「無関心」で、そこに労力を払おうとは思っていません。
たとえば「難しい科学の論文」「細かい字がビッシリの契約書」など…「読む気の起きない文章」って、世の中に山ほどありますよね?
作者にとっては大切で魅力の詰まった「未知の世界観の説明」も、読者によっては読む気の起きない「退屈」で「面倒」な文章に過ぎないのです。
その説明を読んでもらい、さらには「理解」してもらうためには「工夫」が必要です。
1つには、上にも書いたように「解説レベルを調節する」こと。
難しい文章はそれだけで、読者の「読む気」を奪います。
なので、読者の頭にスッと入っていく「ちょうど良い」説明が望ましいのです。
もう1つは「説明を説明と思わせない工夫」です。
たとえば「ゲーム」等には「チュートリアル」という「初心者向けの超簡単なプレイを通して操作法を学んでいく」部分があったりしますよね?
ああいう感じに、説明を上手く「物語」の中に溶け込ませることができれば、読者は説明を「説明と意識する」ことなく、スッと理解してくれるのではないでしょうか?
自分は自作品の中の「世界観を説明する部分」を、そのまんま「世界観説明パート」と呼んでいるのですが…
その「世界観説明パート」、毎度「説明っぽさ」を減らす工夫を凝らしています。
たとえば「夢の降る島」では、島独自の魔法的要素「夢術」を、幼馴染同士での「夢術バトル」を通して「具体的」に描写し、「なるほど、こういうものか」と読者に分かってもらえるよう工夫しています。
閉じられた球体の中の「裏返しの世界」という説明難易度が恐ろしく高い「選帝のアリス」では、主人公がその世界の「模型を見る」ことで、読者の「理解を助ける」工夫をしています。
ブログで連載中の「双子の聖女は運命を入れ替える」では、大陸の歴史を「建国の姫たちを描いた演劇(作中劇)」を通して描写しています。
(…というか、8割方の作品がオリジナリティーの高いものばかりなので、毎度「工夫」を凝らさないわけにはいかないのですが…。)
■「オリジナル」というジャンルの評価が上がらなければ「0話切り」される
ここまで「自作品のクオリティーを上げる」方法を書いておいてナンなのですが…
「作品が読まれるかどうか」は、実は「自作品の」クオリティーだけでは決まりません。
なぜなら読者は「ジャンル」によっても「読む・読まない」を決めるからです。
かなり以前(十代の頃)、友人に連れられてわけも分からないまま訪れたコミケ会場で、「二次創作ジャンル」は押し潰されそうなくらい人で溢れていたのに、「オリジナル」の区画は閑散としていて、人もまばらだったことを覚えています。
この「二次創作」を「テンプレ作品」に置き換えると、小説投稿サイトの現状が、かなり分かりやすく見えてきます。
(実際「みんなのかんがえたさいきょうのせかいかん」を元に創作していると思えば、「テンプレ作品」ってかなり「二次創作」に近いんですよね。)
「二次創作」や「テンプレ作品」が人気なのは、その「元」となっている作品・概念がそもそも人気だからです。
一方「オリジナル」は人気も知名度もゼロの状態からスタートします。
この時点で既にいろいろ不利なのですが、「オリジナル」にはさらにジャンル人気を下げ得る「危険要素」が存在します。
それはすなわち「他作品のクオリティー」です。
個性や多様性が叫ばれる昨今であっても、人間は未だ無意識に「属性」で物事を考えがちです。
最初に食べたニンジンがマズかったばかりに、その後一切のニンジンを「食べず嫌い」する幼児のように…
「それまでに読んだ作品」が面白くなければ、そのジャンル自体を「面白くない」と断じ、「読まず嫌い」するようになる…それが読者という生き物なのではないでしょうか?
「オリジナル」が「つまらない作品ばかり」だと、読者は「オリジナルなんて、結局こんなものか。やっぱりテンプレの方が安定していて良いな」となってしまいます。
自作品が読まれるようになるためには、まず自ジャンルに「それなりのクオリティーの作品」が揃い、人気を集めることが必要なのです。
「ジャンル人気」は1つのサークル・1人の作家だけで作られるものではありません。
粒ぞろいのクリエイターたちが切磋琢磨し、良い影響を及ぼし合ってこそ、ジャンル全体の人気が盛り上がるのです。
少なくとも「自分以外の作家は皆ド下手でつまらなければ良い」という考えでは、ジャンルは衰退し、活躍すべき場を失った作者も生き残っていけないことでしょう。
それと、言うまでもないことですが…低品質な作品がジャンル人気を落とすとしても「下手な作家は書くな」というのは駄目です(普通に「表現の自由」の侵害です)。
自分がそうだったから言うのですが…投稿作品を一番「熱心」に巡ってくれるのは「物書きを志す『勉強中』の作家の卵」なのではないでしょうか?
(他の作者の作品をできるだけ沢山読んで学ぼうとしますから。)
そんな「まだ実力は無いが、向上心の高い作家」の心を折ってしまっては、みすみす「読者」を失い、自分で自分の首を絞めるばかりです。
作者の実力が低いなら、それを責めて貶すより「ノウハウをシェア」して作品の質を高め合った方が「おもしろい作品が増える」はずです。
…まぁ「自分の手の内を晒す」「敵(ライバル)に塩を送る」ことを好まない作者は多いのかも知れませんが…。
■オリジナリティー無き作品に「爆発的ヒット」は無し
「オリジナル」は「元となるテンプレ設定」が無いため思考難易度が高く、同じく「テンプレな展開」を辿れないため執筆難易度が高くなります。
おまけに「ジャンル人気」があるわけでもないので、評価やポイントがつきにくく、モチベーションを保つのにも苦労します。
しかし、それでも「オリジナリティー」を追求する価値はあります。
なぜなら「オリジナリティーの無い作品」では決して超えられない「壁」が、エンタメ界隈には存在するからです。
それはすなわち「時代を変えるほどの爆発的ヒット」です。
誰もが知るほどの大ヒット作品は、大概の場合「それ以前・それ以後」という風に時代が分けられますよね?
そんな「時代を変える大ヒット」に有り、「そこそこのヒット」に無いものは何なのか、皆さん分かりますか?
それはズバリ「それまでに見たことのない新しい何か」です。
爆発的ヒット作は「それ以後」には「後追い」の類似作品がポコポコ生まれますが、「それ以前」に似た作品は全くありません。
つまり爆発的にヒットするような作品には、唯一無二の「オリジナリティー(独自性)」が存在するのです。
類似性を「バトル要素」や「ジャンル」や「舞台(時代・世界etc)」にまで広げれば、過去にもある程度似た作品はあるかも知れません。
しかし爆発的ヒット作はそこに「目からウロコの新視点」「斬新な発想」「それまで光の当たってこなかった部分に光を当てる」などの工夫を加えることで「今までに見たことのない独自の作品」に仕上げているのです。
オリジナリティーの低い「どこかで見たような作品」に、そこまでのヒットは見込めません。
そもそもオリジナリティーが低いということは「他作品との差別化ができていない」ということ。
「その作品でなくても良い」「いくらでも代わりがある」ということです。
似たような作品で「どちらを選んでも一緒」なら、より新しい方、より話題性のある方へ流れていくのが人間というものです。
「その小説だけのウリ」を持てない作品は、すぐに「他の作品」に取って代わられてしまうことでしょう。
もちろん、オリジナリティーを追求することにはリスクもあります。
特に、昨今の小説投稿サイトでは読者も「保守的」になっているのか、「こういうのでいい」という安心感あるテンプレ作品ばかりがもてはやされ、「新しいもの」や「挑戦」が歓迎されていない空気があります。
そして作者の方も、そんな空気を敏感に感じてか、「こういうのでいい」ばかり書こうとしている方が多いように見受けられます。
良く言えば「手堅い」「堅実」なのでしょうが…実のところ、読者・作者双方ともに「挑戦」を諦め「日和っている」のではないでしょうか?
「こういうのでいい」とは、結局のところ、作品が読者の思う「こういうの」を超えられていないということでもあります。
そこに「想像を超える面白さ」は存在しません。
実際「こういうのでいい」と言いながら、そこに「物足りなさ」を感じている読者も結構いらっしゃるのではないでしょうか?
時代を変える「新しい面白さ」は、「未知への挑戦を歓迎する」空気の中でしか育ちません。
過去記事にも書いた通り、ジャン○作品には「オリジナリティーの高い爆発的ヒット作」が数多くありますが、小説投稿界はまだまだ「そこまで」ではありません。
それは、そんな「空気感の違い」から来ているのではないでしょうか?