本のカバーをひっぺがす・小中学生に勧める本は

 割とどうでもいいことではあるが、私は本を買ったときに最初にやるのは、カバーを剥がして捨ててしまうことだ。本を読む上で、そのカバーは滑るだけで何の役にも立たない。

 逆に母は、そういうのを綺麗に取っておく人間で、私の本の扱い方が気に入らないようで、昔は色々とお小言を言ってきた。
「カバーないと汚れるよ」
「本の表紙が汚れったって、中身が読めればそれでいい」
「面白くなかった時に、古本屋に売りに行けなくなるじゃん」
「自分にとって価値のない本は、売るのではなくて捨てるべきだと私は思う。売るということは、また別の人がそれを読むということであり、自分がすぐに手放したくなるような本を他の人が読む可能性を高めるのは、その人の時間を無駄にすることにもつながるから、私はそういうことしたくないと思う」
「でも本が好きなら本を大切に扱うのは大事じゃない?」
「私は紙の束という意味での本が好きなんじゃなくて、その本の中身が好きなんだよ。だから、見かけなんてどうでもいい。読みやすいのが一番いい」

 私は頑固な人間だから、そのうち母は何も言わなくなった。私は別に他の人がどうしようがどうでもいいと思っているし、ブックカバーのデザインが気に入ってるなら、それを残しておきたいという人の気持ちもよく分かる。実際、本の表紙を作る人たちだって、できるだけ多くの人に気に入ってもらえるように真剣に取り組んでいるのだから、それを大切にしようという気持ちは理解できなくはない。でも私は、本を書いた本人が何らかの意図をもって描いたイラストならともかく、そうでない別の人が自分の仕事として本がよく売れるために描いたイラストは、残しておきたいとは思わない。無価値だとは思わないが、読みづらくなることや部屋に使わないものが増えるというデメリットと天秤にかけて、それを残したいとは思わない。


 私の本棚には、裸の本が並んでいる。裸の本しかないから、見栄えはあまりよくない。ほとんどが茶色(文庫本の色)で、時々白や黒。最近の本で文庫本でないものの内のいくつかは、カバーの下にもイラストがある。ボディペイントみたい。

 そこにあるのは、私が自分の部屋にあることを許した本たち。いやもちろん、まだ読んでないのもあるから、そのうちの何冊かには出て行ってもらうことになるかもしれないが。

 それにしてもこの時代、なぜかみな、わざわざ「いい本」を避けようとする。古くて味わい深い本に興味を持たず、どうでもいい本にばかりに夢中になる。あまりにも売れないからか、時々ほしい本をネットで注文しようと思って検索してみると、なんか中古が五千円とかでしか売りに出てなかったりすることがある。
 古本屋にも、いい本が置いてあることは滅多にない。名著はみんな手放さないからか、普通の本屋で買うしかないのだけれど、隅の方にほんのちょっとあるだけ、ということが多い。当然その中に、その日自分が読みたいと思う本があるとは限らないし、結局は図書館で借りて読んでみて、欲しいと思ったときにそれをネットで注文するのが一番なのだ。

 名著をそういう風に買う人が多いせいで、本屋では名著が売れなくなって、どんどんくだらない本で溢れて行って、人は目立っていて人気のあるものに惹かれていくから、いい本を読む人が減っていくのだ。
 あれ。これだと私、その流れに加担してないか?

 あともうひとつ。小中学生に勧める本くだらなすぎ問題。子供舐めすぎ問題。
 子供って、楽しくて、意味があると思えるものにはすごく集中するものだし、難しいことにも諦めず取り組む子も多いから、大人が好んで読むような本だって、その気になれば普通に読めるし「子供向け」みたいな本だけを勧めるのっておかしいと思う。
 教科書に名作を載せて、それを時間かけて読み解いていく国語教育は、高く評価する。でももうちょっと、難しい文章でもいいと思うな。読めない漢字があったって別にいいと思う。その都度覚えて行けばいいし、そもそもこの時代漢字なんて読めれば書けなくてもいいから、もうちょっと早い段階で色んなレベルの文章を読ませてもいいと思うんだ。私はそうしてほしかった。


 そうだ。もし私がこれまでひとりで自主的に本を読んだことのない中学一年生に読む本を勧めるなら、どんな本を勧めるか少し考えてみよう。
 もちろん、勧める本の選び方は、単に自分が好きな本というだけではなく(そもそも「好き」というだけでは多すぎて選べないが)相手がそれを読んで何かを感じ取りやすい本は何かとしっかり考えて、何冊か候補を見繕って、最終的には本人に選ばせるのがいいと思っている。
 ということで人物設定をするんだけど、ここにちょうどいい女の子がいるとしましょう。
 朝木月ちゃん。三人姉妹の末っ子で、来年から中学生。頭はいいけど少し感情的な性格。すぐ泣くし、すぐ怒る。読書が好きな長女を尊敬しているものの、今まで朝読書の時以外はちゃんと本を読んだことがなかった。このまま全然本を読んでいないと、自分も三つ上のちゃらんぽらんな次女のようになってしまうのではないかと不安になり、長女にお勧めの本はないか聞きに行く。そして私は、その長女から「月ちゃんに勧める本、どんなのがいいかなぁ」と相談を受けた、という状況ね。完璧なシミュレーションだっ!

 何も考えず「人間失格」とか「山月記」とか、そういうのを勧めるのはダメだ。あれは、ある程度読書に慣れたうえで、自分自身の問題や欠点に向き合わざるを得ないという経験をしてきた人間か、その真っただ中にいる人間でなければ、あまり面白くないし、不快になるだけだ。あるいは、面白がって笑うだけだ。いずれにしろ、その本の魅力を理解していないのに「読んだ! 次!」という風になるのはよくないし、見ていて不快でもある。
 だから、頭はよくてもまだ感情的には未熟な月ちゃんが読んで、面白いと思いつつ、何か彼女らしい発見が得られそうな作品。
 ……あしながおじさん、とかも悪くないけどなぁ。あれは普通に恋愛小説として面白いし、同時に、この国での「あしながおじさん」のイメージと、物語としての「あしながおじさん」の間に大きな差があるのを、感じてほしい。つまり世間一般の人たちが、「ただ何となく」で感じているものと、実際に誰かが意図をもって作ったものの「像」は、明確に違うものだということを感じ取ってほしい。
 この作品の背景についての解説がついたような本だとさらにいい。そこから考えられることはたくさんあると思うけど、その中から何に注目し、何を語ろうとするのかすごく興味があるし、面白いと思う。
 アランの幸福論(プロポ)とかもいいと思う。読みやすくて共感しやすく、色んな知識への興味にもつながる。あまり本を読んだことのない人が、これからどんな本を読むか自分で決めるうえで、色々と感じることもあると思う。どんな本を読むか、というのは自分がどのように生きたいか、ということでもあると思うから、賢くて親切な人の本を読むのは意味があることだと思う。
 特に賢くて、幼い頃から頭を使いつつ、感情的になりすぎてしまうことに悩んでいる人には、アランの幸福論はいいと思う。反感を持つこともあると思うけど、それも含めて、ね。
 あとまぁストレートに、プラトンのソクラテスの弁明でもいい。この作品は歴史的に重要な役割を果たしている作品であると同時に、人間という生き物の美しさも、醜さも、その両方が類を見ないほど分かりやすく描かれている。私はこの作品は、どんな年齢の人が読んでもいいものだと思っているし、もっと言えば、教科書に載せてみんなで議論しながら学ぶべきだと思う。「このように教える」とか「このように読む」とかではなくて、そこから感じ取ったものを自由に発言して、哲学、というものを体験させるのがいいと思う。
 話がさらに逸れるんだけど、私たち日本人は世界史に対する敬意が足りないと思うんだ。特に、古代ギリシャ、古代ローマに関しては、人類共通の素晴らしき遺産であり、言語の壁も、実はどの国でも同じように壁があるから(古代ギリシャ語もラテン語も、世界的に今でも使われている言語ではない。どの国の人にとっても、日本人にとっての古文以上に馴染みがないとみていい)それ自体が問題になることもない。どうせどの国の人たちも翻訳されたものを読んでる。
 漢文も習うけど、もっとちゃんと内容について学ぶべきだと思う。読み方や解釈だけじゃなくて、それについてもっと深く考えた方がいいと思う。中国の歴史や文化からも、日本人は多くを学んできたし、それについて現代人たる私たちが学ばなくていい理由なんてひとつもないよ。
 でも、月ちゃんに論語はあんまり……いや、論語も悪くないな。意外と、孔子って人間らしいというか、そんな超人的な賢者、って感じでもないから。そういうのを実感するうえでも、論語、悪くないかも。
 私、孔子が顔回が夭逝してめっちゃ落ち込んでるシーン好き。顔回のすばらしさを他の弟子たちと語り合ってるシーンも好き。こう、何というか、胸がきゅーんってなるね。
 アンデルセンとかロダーリとかケストナーとか、そういうのの中から一冊選んでもいい。純粋に面白いし、心にも残る。サンテクジュベリは個人的にあんまり好きじゃない。彼の「子供観」「大人観」が私の好みではないからだ。宮沢賢治は多分教科書でやるからわざわざ勧める必要はないね。

 さぁてとりあえずこのあたりでまとめようか。
・あしながおじさん
・アランの幸福論
・ソクラテスの弁明
・論語
・アンデルセン、ロダーリ、ケストナーとか、私の好きな児童文学作家。

 ヘッセのデミアンとかも悪くないと思うけどね。あと古代ローマに少しでも興味あるなら、セネカとかプルタルコス読ませてもいい。モンテーニュのエセーを読ませるのもあり。そういうのを子供に読ませちゃいけない道理なんてない。いやむしろ、子供こそ、そういういっけん難しそうで別に難しくもない価値のある作品を読むべきだろう。

 難しい本というのは、読むことが難しいんじゃなくて、それを自分の中で噛み砕くのが難しいんだけど、その難しさって大人とか子供とか関係ない。どれだけそれに対して真剣に向き合って、ひとりで考え込めるかだと思う。何度も読み返すことができるかだと思う。
 だからこそ、先の長い若い人間ほど、読むのは簡単で、理解したり学んだりするのが難しい本を背伸びして読んでいくべきだと思う。

 名著はたくさんある。私たちはそのすべてを読みつくすことはできない。それに、名著と呼ばれているものでも、私たちの個性によっては、合わない本はあるし、理解したくない本、というのもあると思う。少なくとも私自身、そう思ったことが何度もある。何百年も前から読み継がれていて、価値があると言われている本が、私にとってただただ不快でしかなかった、ということもあった。それはそれでいいのだ。
 自分なりに、何から学ぶか、何を受け入れるか選ぶことは、大事だと思う。名著と呼ばれるものは何でも受け入れるべし、とするのは誤りだ。
 自分に届かなかったものは、自分に届くべきでなかったものだと割り切って、その本のことについて詳しく言及するのは避けるようにしよう。自分に理解できなかったからといってその本を低く扱うのは不当であることが多いし、時間が経てば分かるようになることもある。時が来るまでは、距離を取るというのは悪いことではない。一生理解できない本があったって、別に構わないんだ。

 気楽に読もう。古典は、それを読んだことがない人が思っているほど、読むこと自体は難しくない。向き合って悩むのが難しいだけだ。そしてその難しさは、本の難しさではなくて、その人自身の人生の難しさだ。

 難しいことは面白い。私たちは明るい気持ちで楽しみながら、自分の人生について悩み、考えていくべきだろう。

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