霊的世界に関する唯物論的考察
霊的世界とは何か。その問いについて頭を悩ませたことのある人は、少なくないと思う。
だがそれについて何らかの説得的な仮説や結論を出すことのできている人は少ない。私はこれについて、ぼんやりとだが、私の中で一応の決着がついている。
だからこそ、それについて冷静に述べることができる。
私がこれから語ることは、客観的ではない。だが、オカルト的でもない。唯物論の立場に立って、主観的に考えたのである。だからそのつもりで、この文章を読んでほしい。
唯物論的世界観において、私たち人間は動物である。私たちの思考は、化学的な現象ではあるが、それによってどれだけ説明されても、それですべてが分かるようになったわけではない。私たちの行動によって私たちの思考が操れるようになったところで、私たちの思考が何であるかであったり、私たちの思考の限界や最高点を定めることはできない。
どれだけ私たちが私たち自身のことを言語的に、論理的に、理解できるようになったところで、私たちの思考そのものの限界は未来に向かって絶えず成長する可能性を有している以上、理解したそばから、新しく理解できない領域が広がってしまう。ゆえに私たちは唯物論的世界観においても、私たち自身を不明の存在として扱うしかない。
ただ唯物論的世界観の根本的な特徴は、一切の独断的な「根源」や「超越的真理」の存在を認めず、それらはあくまで人間の作り出した後付けの幻覚や論理、その他一切の心的現象として捉える、ということである。
私が唯物論的世界観という視点をもって霊的な世界を見るとき、その世界は「現実において肉体を持つ誰かの脳の中で引き起こされている現象」なのである。だからこそ、それがいったい何なのか考えてみることは、意味のあることなのだ。
唯物論的な世界観において、もっとも価値のある存在、もっとも不可思議な存在は、私たち自身の肉体である。私たちの考えることや認識すること、可能性、妄想、その他もろもろは、私たちの肉体と物質的な環境の内部に還元されなくてはならないから、私たちは私たちの妄想や虚言にこそ、最大の注意を払わなくてはならない。
唯物論的世界観において、唯物論的世界観というもの自体もまた、唯一絶対の真理などではなく、一種の思考法、観点、理解の形式でしかない。だからこそ、それには意味があり、追及する価値があるのである。
前置きはこんなものでいいだろう。早速本題に入ろう。
最初の命題は「人間の見る霊的世界は、各個人の間で共通しているかどうか」だ。
私たち人間は、互いにある程度共通した脳の構造を持っている。私の脳のある部分は平均的な人間よりも発達しており、またある部分は平均的な人間より未発達である、ということはあっても、平均的な人間が持っていない脳の部位を私が持っている、ということや、平均的な人間が持っている脳の部位が、私には生まれつきない、ということはない。(もちろん、こう考える際、障害者や病人、及び……新しい種としての人類、あるいは超人類は例外的である。これについてはここでは考えないことにする)
つまるところ、私たちの見ている世界は、ある程度の共通項を持っている。「似たような」の範囲の定義は難しいが、まったく関連性のない世界を見ているわけではない、ということを最初に説明しておこう。
私たちが「赤色」を想像するとき、色彩感覚の優れた人と、そうでない私とでは、想像するその色についての情報量は異なるし、そこから導き出される感情や肉体的反応も異なる。だが私たちはその想像の中に、ある共通の理解があることを見て取る。それはおそらく……後天的なものであることもあれば、先天的なものであることもあると思う。
相互間のコミュニケーションや、育った環境の類似点によって同じように感じ、同じように語るようになったこともあれば、そのような過程を必要としない共通点もまた、存在するのだと言えるはずだ。
ここまで語ったのは、霊的でない世界のことについてだ。では次に、霊的な世界、と呼ばれているものについて考えていきたい。
これはつまり「ある特定の感覚を持っている人間にしか分からないこと」である。霊的な世界とは、それが何を意味するにしろ、全ての人間が感受できるものではない、という前提に立っている。逆に言えば、物質的な世界において、大部分は全ての人間が共通のものを感受している、という前提に立っている。
目の前にりんごがあるとき、そのりんごが存在し、食べられるものである、ということを、大多数の人間が感受できることを、直感にしろ経験にしろ、先んじて了解していることが必要になってくる。
そのうえで、目の前にないりんごを見ることができるかどうか、あるいは、見ないことができるかどうか、というのが霊的な世界に対する感受性の意味であると私には思われる。
私たち人間には、錯覚というものがあり、勘違いや、予測、憶測、準備という意味での妄想、という機能が備わっている。ゆえに、目の認識の力が弱い人間(あるいは、目の認識の力に対して脳の認識の力があまりに強すぎる人間)は、現実と非現実を混同する傾向にあり、しかもその傾向にはある種の共通性を持つため、集団的に、実際にはそこにないものを、同じように見たと感じ、触れたと感じ、他者に語ることがありうる。そういう共通性が「霊感」と呼ばれている可能性は大いにありうる。
私たち人間に共通して備わった「勘違いする能力」「決めつける能力」の必然的一致が、霊的世界を形作るのであり、しかもその能力は当然のように現実に結びつけられた能力であるため、純粋に、物質的な意味で危険な場所に対して、危険な印象を抱き、危険だが存在しない化け物の像を結ぶので、霊的世界観というのは、非常に有用かつ、有意義な共通的認識世界である、と言える。
具体的な例を出せば、廃ビルや人気のない学校で霊を見て、それを恐れるということは、それを信じる人間がそこに近づかなくなる、という結果を産み出す。実際に廃ビルは建物が老朽化しているため、何らかの事故に巻き込まれる可能性が高く、それだけでなく、夜中の人気のない場所は、強姦など、本人がひどい心的、肉体的外傷を受けかねない犯罪に巻き込まれる可能性も高くなる。
霊感が強い、というのは言い換えれば、目で見た印象だけでは分からない可能性に対する不安に対して、過度、あるいは適正な程度に敏感である、と言うことができそうだ。
それだけでなく、ある人間的、物質的な意味で危険な場所を霊的な意味で有名にすることによって、そこで引き起こされる可能性が高かった事故や犯罪が、あらかじめ防がれる、という事態も考えられる。
人間の脳というのは不思議なもので、意識的なものというものの多くは言語的なものであるが、無意識的な領域、つまり言語化されず、記憶もされない領域の中で、多くの処理がなされている。感情的な好き嫌いや、生存本能的な安全危険の判断もそうである。そこで決定されたことを言語化する能力がある一定の方向に発達した場合、現実的な現象や予測が、霊的なそれとして表現される可能性が高いと言える。
そしてそれは、人間が生理学的な意味で一種の動物である以上、近い形で発達を遂げた個体間においては、ほぼ必然的にある共通点を持つ。霊的世界は、各人において、ある程度共通していると考えるのが自然なのである。
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ちょっと疲れたのでこの辺で思考を休めることにする。
私はこの文章で、オカルトを馬鹿にする人間が「なるほど」と思ってくれたら嬉しいし、同時に、霊的な世界を信奉してやまない霊感主義者が「こういう風に考えても霊的世界は肯定されるのか」ということに気づいて、新しく理性の世界にも興味を持ってくれたら、もっと嬉しいと思う。
私自身は結構奇妙なものを感じ取ったり、見たりすることの多い人間であった。だからこそ、正気を保つためにはある程度の理性が必要だったし、人と言葉を対等な立場でかわすには、共通の認識というものが必要だった。
極度に霊的なものを感じやすい人間であったからこそ、霊的なものが存在しない、唯物論的世界観が必要だったのだ。その方が、筋が通っているし、自分の見ているものも説得的に感じる。
胡散臭い人間だと思われずに済むし、何よりも、自分の見ている世界を恐れず、率直に楽しむことができるようになる。
幽霊や妖怪を見て、私自身が発狂する可能性はあるが、幽霊や妖怪が私の肉体を切断したり、私の内臓を一瞬で腐らせたり、ウジ虫だとかなんだとか、気持ちの悪い生き物が群がるようにすることは、ありえないのだ。
反対にありうることは、私が何らかの精神的な異常をきたして、自ら肉体を切断しようとしたり、内臓を腐らせてしまうような不養生をしたり、ウジ虫のような生き物がいっぱいいる場所に遊びに行ったりすることなのであり、私が気を付けるべきことは、そのようなことであるべきなのだ。
そう考えると、私の見る奇妙な光景や感覚も、決して無意味ではないし、逃げるべきではなく、正面から認識し、受け入れるべき感覚であると分かる。実際、なぜそこで自分が幽霊のようなものを見たかと考えると、ほぼ必ず思い当たることがある。何らかの危険を、別の形で自分が察し、肉体が自分の体をコントロールするために、そのような像を結んだのだと納得できる。
何か存在しないものに怯えすぎるのは健康上よくないし、他人が利益のために意味もなく人を怖がらせようとすることはこの世の中でよく見かけることだから、それにも警戒しなくてはならない。
霊的世界というものは、実際にそれを感じ取れる人間にとっては危険であると同時に有用なものだが、そういう人間の機能を用いて商売をしようとしたり、人を操って自分の思い通りにしようとする人間が少なくない都合上、そういう意味でも危険なので、警戒すべきものである。
霊的なものは、たとえ見えていても、ないもの、として扱っていた方が都合のいいものである。ないもの、として解釈し、人に伝わるように言い換えた方がいいものであるし、実際に現実的な解釈に言い換えてしまった方が、現実に即しているのである。
現実というものを認識の力でうまく理解できないから、現実が脳の中で翻訳されて霊的になっているのだから、この、現実が優位にはたらいている現代社会においては、私たちはそれを再翻訳し、現実にしっかり結び付けて表現した方が、好都合である。
「おばけなんてないさ おばけなんてうそさ」
で思考を止めるのではなく
「なぜその人はお化けを見たのだろう。お化けというものが嘘ならば、なぜその人はその嘘を信じる必要があったのだろう」
というところまで考えてみよう。
実際問題、お化けというのは、けっこう有用で、面白いものである。