道徳について語る。反道徳と無道徳の違い。

 人生には敵対関係が必要である。そして死ぬことや拷問の十字架も必要だ。俺が呑み込むのに一番苦労したのは、このことを知ることではなかった。――
 以前、俺は次のような質問をして、あやうく喉を詰まらせるところだった。「ん? 人生にもならず者が必要なのか?」
 汚染された泉が必要なのか? 悪臭を放つ火が、汚らしい夢が、生命のパンの中のウジ虫が必要なのか?
 俺の憎しみではなく、俺の吐き気が、俺の人生をがつがつと蝕んだ! あぁ、精神にはしばしばうんざりした。ならず者にも利口な精神があるのだと気づいたからだ!
 支配者たちにも背をむけた。いま連中の考えている「支配すること」がどういうことなのか、わかったからだ。あざとい商売をして、権力を手に入れようと取引することなのだ。――ならず者を相手に!
 いろいろな民族のところで暮らしたとき、俺の舌は誰も知らない言葉を話し、耳を閉ざしていた。あざとい商売の言葉や、権力を手に入れようとする取引と、かかわらないために。
 そして鼻をつまんで、俺は不機嫌に昨日も今日も歩きつづけた。じっさい、昨日も今日も、物書きのならず者の悪臭が消えない!
 耳も目も口も不自由になった障碍者のように、俺は長いあいだ暮らしてきた。権力のならず者とも、物書きのならず者とも、快楽のならず者とも、つき合いたくなかったのだ。


 私はこれから道徳を語るのだが、いま引用したのは、多分世界一有名な「反道徳主義者」の言葉だ。つまり、私の敵になるかもしれない人間の言葉だ。
 勘違いしないでいただきたい。私は、この言葉を否定する言葉を一切持たないし、それどころか、積極的に同意を与えたい。いや、もっと言えば、私は「反道徳主義」を肯定する。反道徳主義を認め、愛する。だからこそ、私は道徳を語るのだ。私がこれから攻撃するつもりなのは「利己的道徳」と「無道徳」であって「反道徳」ではない、ということを頭の隅に留めておいていただきたい。


 無道徳とは何か。それは動物的な状態を言う。いや、動物的というより、昆虫的と言った方が正しいかもしれない。動物には動物の道徳があるということを、私たちは気づきつつあるのだから。
 無道徳とは、一切の道徳を持たないこと。ルールもモラルもマナーも持たず、いや、それを持つ時でさえ、その個体自身の利益に即した形でしか、それに従わない、ということである。意識的にせよ無意識的にせよ、自分自身の外側にあるもの全てを、自分自身の生存のための道具としてしか認識しないことである。
 動物には仲間意識がある。自らの子を守ろうとする本能もある。群れを守るために命をなげうとうとする個体だっている。そういうのは、決して無道徳と言えるものではない、と私は考える。

 無道徳は、悪と呼べるものではない。もしそれを悪と呼ぶのならば、それは真の意味での悪、つまり他者を害しようとする欲求に対する失礼だ。無礼だ。
 私は、気に入らない他者を殺そうとしたり、自分を傷つけてきた人間をあとでさらに傷つけようとする欲求を、無道徳的なものとは思わない。それは一種の道徳である、と私は考える。悪もまた、ひとつの高度な人間性であり、道徳の一種である、と私は考える。だからこそ、自らの生存や欲望のためだけに行動する「無道徳」を、「悪」と同じものとして捉えることに反対なのである。悪の中に美しさがあることは、時々ある。対して、無道徳の中に美しさがあることは、一切ない。一切、ないのである。

 無道徳性に対する攻撃は、その程度でいいと思う。これは決して消えるものではないし、おそらく多くの人が無意識的に、本能的に感じ取っていることでもあろうから。無道徳的な人間は魅力にも生産性にも創造性にも欠けているし、いや、言い換えれば、人間としての高級さに属するあらゆる素質、つまり「徳」と呼ばれているものが欠如しているからこそ、その人間は無道徳的、と言えるのである。このような人間に、私は同情しないし、同情できない。存在を許すことすら、難しい。

 次に「利己的道徳」について語ろう。これは自らの利益のために用いる道徳のことである。たとえば、年長者が若者や子供、女性に対して「女子供は常に年長者に従わなくてはならない。口答えも許されないし、逆らうなどもってのほかだ」という道徳を語り、そのうえで彼らの能力や所有物を搾取的に利用する、ということである。
 このような道徳は道徳全体の中でもっともよくみられるものであり、道徳自体に敵意を持つ「反道徳主義者」が産まれるもっとも直接的な理由である。
 この道徳は先ほど述べた無道徳性に起源を持つが、彼らは自分たちと同じ立場にある人間と協調し、時に友情を育む傾向にある。彼らはいつも「私」ではなく「我々」なのである。
 無道徳性は、一切の他者を考慮しないので、守るべき存在は「私」だけである。しかし利己的道徳は、ある一定の範囲まで守るべき範囲を拡大させているため、そうでない人間や生き物に対しての接し方は無道徳的であるが、範囲内の人間に対しては、とても道徳的である。


 私の主張する「道徳」とは何か。これは、己以外の存在を己と対等なものであると認識する、ということであると私は思う。言い換えればそれは「尊重する」ということでもある。
 また別の見方をすれば「対象に対して、自分がされて好ましくないと思うことを、自ら行わないよう心掛ける」ということでもある。先ほど悪が道徳的と言った理由もここにある。「自分、あるいは周囲がされて好ましくないと思うことをされた場合、相手に対価を払わせる」といった制裁もそうであるし、それに対する予測、つまり「自分、あるいは周囲がされて好ましくないと思われることをされる前に、先んじて相手を攻撃して警告、あるいは殺害する」という形の悪もまた、一種の道徳である、ということ。
 これは生物が快適に生きるために産み出した知恵の一種である、と私は思う。自分に害を与えてこない生き物に対して、害を与えないよう心掛けること。さらに、自分に利してくれているものを害しようとするものを排除することも。
 これが道徳と呼ばれるものの基本的な共通点である、と私は考える。

 私は、これまでの道徳主義者たちのように「人間は全て道徳に従わなくてはいけない」などと言うつもりはない。私が語るのは、これまで道徳と呼ばれていたものがいったい何であったのか、という事実についてである。及び、私たちはその中から自らを何に従えるのか選ばなくてはいけないのだから、そのための情報整理である。


 反道徳主義者。これには、性質の異なる二つのものがある。
 ひとつは、社会に蔓延る「利己的道徳」の内部において、尊重されない側に配置されているとき、その道徳が自ら及び、自らの周囲の仲間たち(自らの道徳の範囲内)を尊重しないという「無道徳的」な態度に対する怒りによって生じるものである。道徳が自分たちを守るのに役立たず、ある特定の利己的な種類の人間だけに利していることに不正義(無道徳性とも表現できる)を感じ、新しい道徳(正義)を求めるからこそ、既存の道徳に対して反道徳的になる、のである。
 ちなみにこれの派生形なのだが、自分自身も利己的道徳で利益を得られる側の人間でありながら、高い共感性や人間一般に対する潜在的な強い愛情を素質としてもって産まれた人間もまた、同じ型の「反道徳主義」に傾倒することがある。彼らは「道徳よりも正義を尊重する」という風に自分自身のことを思っている。それは言い換えれば「あいつらの道徳よりも、こちらの道徳の方が、より道徳的である」ということである。
 彼らは自分たちが反道徳的でありながら、もっと強く広い範囲を射程に収める「新しい道徳」を他者に押し付ける、という傾向を持ち、その道徳に従わない人間を「道徳の外側」に置き、無道徳的な態度で彼らに接する、という傾向がある。つまり結局のところ、彼らもまた「利己的道徳」の内部にいる、と考えられる。
 結局のところ彼らは、自分自身が道徳的に接してもらいたいから、誰かに対して道徳的になったり、誰かに対して無道徳的になったりするのである。


 もうひとつの反道徳主義は、最初に引用した彼(ニーチェ)のような型であり、非常に稀である。強い理性と感情の両方を持った人間のみが紆余曲折を経て行き着くものであり、それはあらゆる道徳の本質を見極めたうえで、自らが従うべき「集団的道徳」などは何もないのだと決定することにある。つまり、彼には道徳があるが、その射程は自分自身の内部のみに規定されており、他者にはそれを求めない、ということである。そしてこのような形の道徳は、道徳ではなく、信念と呼ばれることが多い。これは偉人に多く見られる道徳的主義であり、他の反道徳主義とは一線を画するものである。
 彼らは利益や欲望を超越している。ゆえに、自分自身の利益や欲望に対する執着は弱く、他者にとっての利益や欲望についても、あまり尊重しない。自らの目的や、生き方そのものに焦点をあてて言葉を発し、行動するため、人間離れしたような印象をもたらす。
 だが私の考えでは、彼らこそが、もっとも人間らしい人間であり、彼ら以外の、自らの無道徳性に対して無自覚、無頓着な人間の方が、あるべき人間性に到達していない未熟な人間である、と私には思える。


 私は、無道徳的な人間が大嫌いである。ハエやウジ虫のような人間が大嫌いである。だが「彼らのようであってはならない」「彼らのような人間は尊重しなくていい」と言ってしまえば、それ自体が無道徳的な態度であることを露呈してしまう、ということを私は自覚し、口をつぐんでいる。
 その現実が示すのは、自分がまだ「利己的道徳」というものに片足を突っ込んだまま生きているということである。私は私自身の信念ではなく、私自身の快不快をもとに言葉を話している。
 私は自分が、あまりに未熟であることを自覚せずにいられない。

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