忘れるという能力
私たちのような誠実な心根を持つ人間は、自分が言ったことに責任を持とうとし過ぎてしまう。それはもう癖のようなもので、自動的にそうしてしまうし、それに反したことをしようとすると、強い呵責を感じてしまう。
たとえば最近私は「私は毎日文章を書くことが少しも苦じゃない」と言ったが、もし明日、一日中文章を書く気にならなかったとしたら、私は無理にでも、苦じゃなく文章を書いている自分を演じようとしてしまうと思う。それくらいに、自分の言ったことが自分を縛り付けてしまうのだ。そういう、無意識的な性癖なのだ。
もし私の記憶力が完璧であったり、あらゆる自分の発言に注意を払うような人間であれば、私は間違いなく言葉によってがんじがらめになって、動けなくなっていたことだろう。かつての私は、そういう傾向があったし、そのせいで動きづらくなっていた。
最近私は、忘れることを覚えた。遠い昔に言ったことに固執せずに済むようになった。
そのコツは、命令を更新することにあった。つまり古い命令に自分を従わせ続けない、ということ。過去の自分に固執しないということ。
たとえば一週間前「私は毎日三時間以上絵を描く」と決めていたとしても、今日私が「私は毎日三時間以上文章を書く」という命令を自分に課せば、一週間前に定めた命令は無効となり、私はそれを忘れることができるようになるのだ。
それは他者の「こうあるべき」に対しても同様だ。
私はこれまで他人の言うことに従いすぎてしまう傾向があって、別の人間が矛盾した「こうあるべき」を押し付けられると、混乱して動けなくなってしまうことがあった。だが今は、それよりも強い「こうあるべき」を自分に課すことによって、人の善悪の言葉を忘れられるようになった。
命令は、更新することによって忘れることができる。あらゆる毒は、さらに強い毒によって克服することができる。私は自分の体を試し続けることによって、自分の体にとってよい毒を見つけた。だから、どのような毒が私に降りかかって来ようとも、私はきっと私自身を保つことができることだろう。
自らに新しい命令を下すということは、与えられた古い命令を忘れるということなのだ。
人間の体は代謝し続けている。もし同じ皮膚をずっと使い続けていたら、すぐに病気になってしまうことだろう。
同じように、人間の思考や生活方式も、代謝し続けなくてはいけないのだ。変化を積極的に受け入れることによってのみ、病気にならずに済む。
もちろん、代謝の速度にも、その仕方にも個性はあると思う。
自分にあった知的生活を送ろう。