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言葉っていったいなに?【言語に関する考察】
1.観念と言語の違い
人はよく、観念と言語を混同して捉えてしまうが、実際のところ、これらは境界こそないものの、全く別のものである。
分かりやすく例を出そう。
たとえばあなたの目の前に友達がいて、その人に「私は今日七時に起きた」と言うとしよう。するとその友達は「この人は、この人自身が七時に起きたことを私に伝えてきた」という認識をする。(実際にその言葉を頭に浮かべるのではなく、そう認識する、つまり『分かる』という状態になる)
言語とはあくまで、他者の認識を促すものであって、認識そのものではない。
これだけだとまだ分かりづらいと思うので、比喩を用いて説明してみよう。
雪合戦を会話にたとえる。雪は、概念であり、思考である。それを丸めて球にする作業を「言語化」と呼ぶ。そしてそれを投げることを「発言」や「執筆」と呼ぶ。
ここで、雪と雪玉は同じものである、と考える場合、それは間違っている。雪と雪玉は全然違う。雪玉は人間の手によって固められたものであり、自然的に存在する雪とは性質の異なるものだ。
目的自体も、雪は目的もなくそこに存在するが、雪玉は、それを投げるために形が整えられている。
言語とは本質的に、相手に届くように、自分の思考や認識、感覚といったものを丸くしたものなのである。
思考や認識、感覚といったものは、まさに雪のように、明確な形を持っておらず、うまく捉えることも難しい。だから人は、人と関わるうえで、その雪の集め方を覚え、固め方を覚え、投げ方を覚えるのである。
2.「○○とは何か?」の罠
「私とは何か」とか「時間とは何か」とか、そういうことで混乱している人をnoteでよく見かける。
言語とは基本的に他者を想定して用いられるものであり、言語から出発した問を、観念的なやり方で思考するのは基本的にうまくいかない。
先ほどのたとえでいうと、「私」や「時間」というのはすでに形の整えられた雪の像であり、それが何であるか探ろうとその形を崩したり、一部を切り取って眺めてみたとしても、その時点で完成された像の形は崩れ、別の形に変わってしまう。あくまで単語というのは全て、像として人に伝えるためのものであり、その内部に何かがあるわけではない。
「十時にいつもの駅前集合ね」という日常会話は、ほとんどその意味を理解できる。しかしここで「十時とはどういう意味だろうか。時間とは、いったい何であろうか。私たちが十時だと思い込んでるものは、実は十時ではないのではないか?」などと考え始めると、めんどくさいことになる。
時間を二十四分割したのは、単にそれが生活をするうえで都合がよかっただけであり、何か世界全体の機能としての必然性は存在しない。
3.単語は道具である
この世の単語の全ては「他者との交流」のために存在する。
ゆえに「その語がいったい何であるか」と考えることよりも「その語がどのように機能するか」の方が重要なのである。