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才能のなさを感じるとき

 好きでも得意でもなかったとしても、ずっと続けていれば、たいていは常人の手の届かないくらいの場所までは行ける。
 人生を懸けて何かを取り組めば、という話だ。

 そういう事実を見つけて「だから、才能という言葉は言い訳の材料でしかないのだ」と言う人は多いけれど、私はそうは思わない。

 目標地点がどこにあるか、ということと、自分にとってその目標がどの程度魅力的か、ということ。
 そもそも人生を懸けるにあたって、適当に決める、ということはできないのだ。そこにはある程度、確固とした理由がなくてはならない。
 もちろん、そういう理由がなくても、やる人はやる。でもそれはとても稀有な性質を持った人だ。ある意味、特別な人だ。たいていは、そんなよく分からないほど強靭なバイタリティは持ち合わせていない。理由もなく適当に決めたことに対して、真剣に向き合い、命を懸けられるような愚直さは持ち合わせていない。

 それとは別に、同じ時間だけ取り組んでも、どのような態度、どのような方法でそれに取り組むかで、成長の速度も方向も変わる。それは生まれ持った「才能」と呼んでいいのか難しい部分があって、環境や、運と呼んでもいい部分がある。
 優れた人の真似をすれば優れた人間になりやすいし、優れていない人間の真似をすれば、優れていない人間になりやすい、ということでもある。
 周囲に優れた人間がいない場合、彼に何か特殊な才能がある場合を除いては、彼は見習うべき人を持っていないので、それ以上成長することが難しい、ということだ。

 周囲に導いてくれる人がいない人は、それを持っている人に比べて、成長が遅いことが多い。逆に、周囲に導いてくれる人がいないにも関わらず自分で考え、選び、成長することができている人間は、それだけで大多数の人間とは異なるある優れた才能を持っていると言っていい。

 優れた技能を持っている人の大半は、周囲に恵まれ、そして彼自身がその周囲の期待に応えるだけの努力をしてきている。
 逆に、どれだけ努力をしてもあまり結果が出ない人は、自分より優れた人との出会いに恵まれていないか、あるいは自分からそういう人たちとの接触を避けていることがあると思う。どのような人が優れているのか分かっているのに、劣等感を感じたくないという理由だけで、自分より優れた人のアドバイスに従わなかったり、自分より劣った人との関係を優先したり、そういうことをしていると、どれだけひとりで黙々と技能の向上に取り組んでも、他の人たちと比べてうまく行かない、ということが多いと思う。

 では、人はどういうときに才能のなさを感じるのか。それはおそらく、優れた指導者に恵まれ、自分自身も最大限の努力をしてなお、自分自身が成長しているという実感を得られていないときであろう。
 はっきり言って、人には向き不向きがある。それは言い換えれば、好き嫌い、ということでもある。
 人が集中できる対象は、その人の生まれ持った性質と、それまで育ってきた環境、その他色々な要素によって決まるが、いついかなる時も、どんな対象に対しても、最大の集中を持って取り組める人間など、私にはいないように思う。
 注意力散漫になっているとき、人は成長の速度が著しく低下する。そして、どれだけ集中しようと思っても、集中して取り組めないということがある。集中していなくても向上する技能はあるが、ある程度以上の技能レベルを追求するならば、ほぼ必ず「集中力」というものが必要になる。それが欠けている場合、どれだけ時間をかけて取り組んでも、あまり成長しない、ということがあるのである。

 長時間集中する必要はない。毎日にしろ三日に一回にしろ、集中しよう、と思ったときに、集中できないことが多いと、そのとき人は「才能がない」と感じるし、その感覚はおそらく当たっている。集中ができず、才能がないと感じたまま続けていても、あまり成果は期待できない。

 もちろん、技能のレベルが低くても、他の部分の能力で補うことによって、自分自身が生きていくうえで利益は得ることはできると思う。
 たとえば絵を描くのが好きでそれを生業にしようと思ったときに、どうやってもそれ以上絵が上達することがなかったとしても、それをうまくプレゼンする能力に長けていたり、あるいは学生時代に作ったツテを利用して、継続的な仕事を得ることができたり、そういうことがあれば、たとえ集中力が欠けていて、それより上達することがなくても、何とかやっていくことができる。
 技能のレベルは基本的に高ければ高いほどいいが、その人自身の目的によって、どの程度の技能を目指すか、というのは異なると思う。

 つまり、ただただ成功が欲しいだけなら、実のところ、才能も集中力もいらない、というのは間違ってはいないのだ。だから、私が最初に否定した「才能という言葉は言い訳の材料でしかないのだ」についても「上達しないことを才能のせいにしてはいけない」は正しくないが「成功しないことを才能のせいにしてはいけない」は、ある意味正しい。才能がなくても、プライドを捨てて、あの手この手、手段を選ばず動き続ければ(まぁそれが難しいのだけれど)確かに、大半の人が認めてくれるくらいの結果は、どのような人でも得られると思う。

 当然、目標が高すぎる場合や、上達自体を目的とする場合は、どうあがいても才能という問題は付きまとう。集中できないということが、どうにも自分自身を苦しめる。しかもどれだけ苦しんだとしても、その苦しみが集中力を向上させることは基本的にない。不断の努力が集中力を高める、ということもない。(むしろ、頑張ろうとすればするほど人は疲労し、疲労している状態では当然集中力は下がる。集中力が高い人に共通している特徴があるとすると、休むことがすごくうまい、ということだと思う。そしてこれはおそらく、努力どうこうの問題ではないと思われる)

 何はともあれ、何かに取り組んでいる時、才能なんてことが気にならないくらい集中しているなら、わざわざそれについて考え込む必要はないし、逆に、自分の才能の有無について気になっているのならば、それは自分が集中できていない証拠であり、集中できていない原因が、単に疲れているだけならば、休めばそれで済む話、ということも多い。

 どれだけ休んでも、どれだけ元気でも、それでもやる気が出なかったり、注意力が散漫になる場合は、その場合はもはや興味が失せているという可能性もあって、そういう時に意地張って無理にやろうとしても、うまく行かないことが多い。そういう時はもう、割り切って、才能のせいにして、また別の何かに取り組むのも、選択肢として決して選んではいけないことではない、と思う。


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