いいねに隠れた本当の意味。
SNSを使って発信をしている身なので、「いいね」がつくと純粋に嬉しい。
ただ、この「いいね」に一喜一憂すると、ついつい大切にすべきことが見えなくなるので気をつけている。
そして、最近痛感しているのは、「いいね」は、必ずしも本当に「いいね」って思って押されたものではないのではないか?って思うようになった。
このことを今一度理解しておくことがいいねに振り回されない秘訣なのかもしれない。
そもそも、自分はどんな時にいいねを押すか?と思って考えたところ、
・純粋にいいね!って思ったとき
・読んだよ〜っていう足跡のため
・写真いいなぁって思ったとき
・後で確認しようって思うとき
・久しぶりだな〜ってとき
などなど、「いいね!」と思うだけではなく、タイムラインに現れたというサインを記すためにも使ったりする。
特にTwitterやnoteはどちらかというと、自分が情報源として後で確認したいときに押すことの方が多い。
余談だけど、だから、人のTwitterのいいね欄は割と有益情報が集まってると思うし、興味の範囲がダダ漏れだから、眺めると勉強になったりもする。
とはいえ、「いいね」は、こういったポジティブな側面だけじゃないから、囚われすぎなくていいと個人的には思っています。
私は基本的にSNSが自分と世界をつなぐ窓口のため、仕事も基本はSNSキッカケが本当に多い。
そんな同じようなSNSが仕事の経路である人の中で、一時期、Facebookのいいねを増やしましょうというブームが起きた。
いいねを手当たり次第押してくれる謎の「いいねおじさん」という属性がいるうようで、こういった方を味方につけると、いいねのカサ増しができるらしく、そういう人と積極的に繋がろう!という流行りがあった。
(いいねおじさんは、一体どんなライフスタイルを送っているのか、どんな気持ちで人に対していいねを押しているのか、考えれば考えるほど、逆に興味が…。w)
他にも、自分のエンゲージメントを上げるために、手当たり次第いいねを押しまくるなんてノウハウもあったくらい。
アメブロやインスタには自動装置もあったりするもので、意外と「誰がいいね押してくれたのかな〜?」と気にしてもらうことを目的としていて、1つの手段ではあるものの、繋がりたい人と繋がれるのか?というとまた別問題だったりもする。
また、Facebookでは、超いいねが導入されたことにより、超いいねというボタンを押すことなく「私はそんなにいいと思いませんけどね。」といった、一種の自己主張としての「いいね」も増えてる。
本名だから批判しづらかったり主張しづらいことをこういった、ボタンで主張しているという風潮も現代っぽいなぁ…と思ったりする。
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繋がることが簡単にできるようになったからこそ、繋がった証拠というものは、必ずいいねに求めていく必要はない。
もちろん数字を伸ばすことは、快感になることもあるけれども、必ずしも繋がりたい人と繋がれているかどうかというものは別問題であったりもする。
「いいね」の背景には、いろいろある。
共感も、承認も、欲望も、そして批判も、人それぞれある。
だから、私たちは、発信する側としての自分の決めたSNSのルールという美学を貫いていくことが大事なんじゃないかなと思う。
「いいね」は全く押されていないけど、一緒にお仕事をさせていただいたり、いつも読んでるなんて言っていただいたりするものです。
先日読んだ明石ガクトさんの動画2.0にこんな文章があった。
僕らは再生回数を一旦、無視することにした。
なぜなら再生回数は作ろうと思えば作れるからだ。
本当の意味で自分はどうしたいのか?そこは、個人個人に答えがあるし、問い続けなければいけないのだと思う。
SNS疲れなんかが起こるなんて聞くけど、「いいね」に囚われないというのは、1つのSNS疲れから脱却できることなんじゃないかな。