『新相互扶助論〜これからのアナーキズムの話をしよう〜:草稿』
§0.この『新相互扶助論』と題された短論文は、その名が一般的に想起させるような、論理構造や体系性によって築かれた1つの建築のような記述法は採っていない。セクション番号で区切られたそれぞれの考察は、それぞれが全体として完結していて、ある程度の独立性も認められる。その小さな全体の多様は、大きな全体では統一された部分としても機能する。そのような論理は、階層構造を成している一般的な学術的記述とは異なり、曼荼羅に類似した有機的構造の論理である。その構造は、ちょうどぴったりそれが叙述する社会のネットワークや相互扶助のシステムを反映したものとなっている。それゆえ、本論文では、各セクションはノードとして現動的に機能している。しかし、それらをリンクさせるエッジは、敢えて潜在的な状態に留めている。それによって、階層構造の支配的・従属的な論理とは別の論理が、中心も主従もない執筆者の想定した設計図から自由で、後から繋がりを発見することにも開かれている潜在的な地下に隠れた、独立的であると同時に相互的でもあるような論述形式を試みた。それは、筆者が意図的に記述しなかったことの補完を、意図的に記述したことよりも多くの含蓄を、読み手と書き手のアトム的な最小社会による創発を生み出すための触媒や種子となったり、誘発させる試みが本論文である。
§1.社会とは、2人以上の個人によって構成される集団であり、それが全体として生産する価値や有用性が、その集団を構成する個人の総和よりも明確に大きい、あるいは小さい場合に成立していると見做される秩序である。例えば、ある正方形の折り紙を4分の1の大きさの正方形に折りたたむという作業があったとする。このとき、1人が大きな正方形を2分の1の長方形に折り、もう1人がそれを2分の1の正方形に折る分担によって、1人の作業が単純化された結果、全体の生産性が向上するというとき社会が成立している。逆に、2人がジャンケンをして負けた方が2人分の作業をやらされるというときに、2分の1になった労働力が生み出す価値が、2人がそれぞれ独立してすべての作業工程をするという集団ではあるが、社会ではない状態よりも低い場合にも社会は成立している。最後に、(先にも述べたが)正方形の紙を4分の1の正方形に折りたたむ為に必要なすべての作業を2人の人間がそれぞれ独立して行う場合には、たまたま同じ作業をしている人が近くにいるのと何ら変わりがない。この部分の総和と等しい生産性を発揮する全体としての集団には、社会は成立していない。
§2.人間と同じく社会性を持つアリの顎は人間の手と対応している。同じ機構が食物を持ち運び、幼児を抱きかかえ、住む空間を形成する。ある種が社会性を持つためには、同じではないにせよ、すべての個体に共通しているその基本的な身体構造に、食物を得るにも、住み家を作るにも、生殖をするにも、幼体の養育にも特化できる潜在性を持ち、必要に応じてそれを現動化できなければならない。そのような「道具」は、1つあれば十分である。1つ以上あるとそこに変異が集中しづらく、またその道具間で衝突が起きる可能性があるからだ。そして、それは単純性によって変異の影響を減少させ、双対性によって有効範囲と有用性を拡張し、汎用性によってそれを持つ個体が要請されたあらゆる機能に合わせてその機動を決定できる自由と、周囲の環境に作られた受動体から周囲の環境を作る能動性を発揮する自由へという2つの自由を享受させうるようなものでなければならない。それゆえ、アリの顎はハサミやペンチ、爪切りなどと基本的構造を同じくして、しかもそれよりも高度な有用性を持っている。人間の手は、棒切で延長させたり、ショベルやピンセットや箸などの特定の機能を特化させたり、自動ドアやポインターなどの手がもたらす特定の効果のみを彫琢したものまで様々である。それらを定式化すれば「〈手が使用する道具を作る〉から、〈道具によって手の使用が作られる〉へ」である。手が文字を書くことによって文字を〈作っている〉とき、文字もまた文字を書く手を〈作っている〉。ノートに繰り返し文字を書いてその文字を覚えようとすることは、その文字を書く手が作られていることであり、その文字を再現して書くときに要請される筋肉や腱や骨格の連動の機能を持つ手を作ることである。こうして〈作るものから作られるものへ〉と定式化される手という器官はある種の最小社会を成しているとも言えるだろう。一本の手ではリンゴ一つしか持てないが、一対になった二本腕はいくつものリンゴを塊や山のようにして、一本だけの場合よりもはるかに多くの数を持ち、さらにバランスを取りながら運ぶこともできる。ここでは両手という全体が片手という部分の総和よりも明確に高く多く大きな力や機能を創発していることが容易に見て取れる。一方の手は、もう一方の手があることを前提した構造を成している。だから、手を分析するときには、その要素である片手や指の一本一本に分解して考察するのではなく、両手と5本指を総合して、それが全体として成している相互連動する1つの有機的なシステムとそのダイナミズムを捉えなければならない。これは、社会を成している個体の集まりを対象としている論究における思考と類比的である。独立個体や個体の単なる寄せ集めと社会成している集団は一見したところ同じようにも思えるが、その直接目で見ることのできない秩序体系を創発しているか否かがその分水嶺である。個体がまず持って単独で社会に類似したシステムによる創発によって成り立っている。それは部分的な諸器官の単純な連結に還元できない有機体であり、社会という全体から見たときの要素−部分である個体にも、個体の集団が成す離散的社会とは異なる連接的社会として完結した全体性があり、その部分、部分の部分に至るまで特有のその部分の全体が成すものから独立した独自の有機性が織りなす全体性を持っている。それゆえ、その全体は部分の総和を超えた創発ができるのである。ここに、相互扶助の原型がある。このような汎社会論に基づいて新しい相互扶助の理論は展開されていく。
§3.生殖器官は多くの哺乳類や爬虫類などに共通して凹に凸を挿入する単純な形状になっているのは、複雑な形状や手順が必要とするように変異すれば、それは容易に生殖できる変異と比較して個体数が少ない種になってしまうからだろう。生殖器官の単純な構造・形状はたとえそれに何らかの変異が生じたとしても、それがたとえ生殖を阻害させるような影響を持ったものだったとしても、その基本構造と生殖行為の単純性が勝るか、そのような変異は保存されないだろう。また、雄と雌(あるいはより多くの性)という器官にも機関にも大きく異なっていながらも、二人で一つの行為を一方は凸状の器官としての、もう一方は凹状の器官としての役割を担っている。これが鍵のようにそれに合う形状同士が限定されたり、縫い針の穴ほどの大きさの膣にロープを通すような困難と苦痛を伴うものであるならば、如何に本能に強く動機づけられていたとしても、性欲に駆り立てられていたとしても、交配は困難な作業となるだろう。だから、できるだけ少ない条件と手順で成立し、変異の影響を受けづらく、それを促すのが単純な欲求であっても目的を果たすことができる個体が選抜されて、それらの凹と凸という相補的な身体形質を獲得したのだ。
§4.共同所有化とは、所有対象を中心に形成・結合された所有者集団の社会化である。例えば、ある集団を構成するそれぞれの個体がハサミを私的に所有するとき、その有用性は一人一人の所有者が「使用している時間」にしか発揮されない。しかも、その短い「使用している時間」を獲得するために、「使用している時間」以外のほとんどを占める「使用していない時間」の、つまり単に所有しているだけの時間分まで余剰に代金を支払わなければならない。このような私的所有形態を社会化すると、社会が1つのハサミを共同で所有することになる。ある個体が「使用している時間」は、同時に「所有している時間」であり、それは同時にその個体以外の個体が「使用していない時間」である。ある個体が使用を終えると、それはまた別の個体の「使用している時間」と「所有している時間」となり云々…と私的所有権はそれを使用している時間にのみ効力を発揮する。そして、その使用している個体にとっての有用性が役割を終えると、その所有権は他の個体へと移る。このような共同所有は、私的所有した場合に発揮される有用性を全く失うことなく、「所有している(だけの)時間」は、他の個体が「使用している時間」へと転化するのである。そうなると、その所有対象がある程度の規模で共有されると、私的所有における「所有している(だけの)時間」が、同時に「使用している時間」となる。それによって、所有対象はその有用性を最大限に発揮することができるようになる。そのうえ、その1つの所有対象は大勢の個体がそれぞれ使用−所有する時間とピッタリ同じ分だけ支払うことも可能になる。その所有形態において所有対象は、有用性を全く減じることがなく、それを使用するために支払う代金は共有する個体数が増えるだけ減少していく。ハサミのような道具の所有権は、その所有集団の社会化の度合いに従って、一つの道具と一つの個体との集権的所有から、道具に結びつけられた個体から個体への分権的所有へと移行する。そのように移行した所有形態では、使用と所有は交換可能な概念となるだろう。
§4(ChatGPTによる校正版).共同所有化は、所有対象を中心に形成された所有者集団の社会化である。具体的には、ある集団内の個々のメンバーが私的にハサミを所有する場合、その有用性は各所有者がそれを使用している時間に制限される。しかしその一方で、使用していない時間に対する余剰代金の支払いが必要とされる。このような私的所有形態を共同所有化すると、社会全体がそのハサミを共同所有することになる。ここで個々の所有者が使用する時間は、同時に他の所有者が使用していない時間でもあり、所有権は所有者間で頻繁に移転する。この共同所有形態において、私的所有権は使用時間に対してのみ有効であり、所有者が役割を終えると所有権は次の所有者に移行する。このような共同所有は、私的所有の有用性を維持しつつ、所有時間が共有されることで有用性が最大化される。さらに、所有対象が共有される規模が大きくなると、所有時間は使用時間と同じになり、代金も所有者の数に応じて減少する。ハサミなどの所有権は、所有集団の社会化の度合いによって、集権的所有から分権的所有へと移行し、使用と所有は交換可能な概念となる。
§5.社会的労働とは、全く唯物論的な単純性に還元すれば、生産それ自身への欲望(あるいは、生産したものを手に入れたいという欲求)に動機付けられた個人的労働(自ら生産して、自ら消費する)と同じ振る舞いである。しかし、その労働によって生産された成果は、その生産に関わった者自身ではなく、その社会の外部にいる他者が欲望(消費・使用)する商品である。したがって、社会的労働は、その社会にとっての他者の振る舞い(購買行動)を動機付ける。では、社会的労働を成立させている諸個体は何に動機づけられているのか?そこには、ルソー流の「一般意志」なるものは存在しない。一つの商品を生産するという因果関係においては統一された体系をなしているのに対して、その社会の諸個体の生産行動を動機付けているそれぞれの欲望は、その社会の外部で生産された様々な商品へそれぞれ個別的に、バラバラに向いていて、何ら統率はとれていない。にも関わらず、その社会的生産が成立しているのは、その報酬が、個別的な欲望の対象という質で支払われるのではなく、その対象がどんな対象とも交換可能な量に転化した貨幣という形態で支払われ、その量が一定以上になると商品という質に転化させることが可能になるという商品−貨幣の関係(それと、消費−生産という関係)によって、生産過程をなす諸社会という小さな全体が部分として大きな社会という全体を形づくるときに諸社会を結合されているからなのである。
§6.社会について、それを構成するものとして対置された個体と同じように捉えることは、本稿が提示する新しい社会有機体説と、その説における有機体観念の下では正当なものと認められる。しかし、石のように無機的な実体として個体と社会を捉えようとすると思索の迷宮に迷い込んでしまう。個体は部分の機能とそれらが連関した全体を保持するための諸細胞を合成−分解する「過程」であり、社会とは諸個体の行為とそれに対する快楽−苦痛というフィードバックとまたそれに対する行為とが全体として一つの機能・性質を成しているという「過程」である。従来の有機体説を支配していた全体と部分からなるスタティックな社会という観念には歴史的発展という時間軸と社会という全体は生物個体という全体とは異なる独自の有機的構造を成しているという空間軸を欠いていた。まず、仮に社会という有機体に杓子定規に生物の個体の構造を当てはめるとしても(社会の構造はどちらかといえば種の構造に近いのだが)その生物のすべての時間に先立って(人間と同様に雌雄で生殖する生物であれば)一つの受精卵という一部分の細胞に等しい全体=部分あり、さらにはその生物を出生させた個体が存在する。全体が部分に先立つのでも、部分が全体に先立つのでもなく、全体と部分はそのすべてに(時間的に)先立つ段階では等しいものなのである。そして、その全体は2つに分裂し、その分裂した2つの細胞もそれぞれ2つに分裂し…と複雑化していく。この法則は植物である樹木の場合でも通底している。ただ、前者が内部と外部を持ち、内部の空間の一部を外部に切り離すという過程であるのに対して、樹木はすべての時間が連続していて切り離されることはない。一つの種子は2つに分岐した芽を出し、その芽のそれぞれの肢体もまた2つに分岐して、それ以上複雑化することなく分岐を続ける。それと同じ規則で地下に根を張っていく。木はその生涯の全歴史そのものである。木の空間は凝固した時間でもある。動物の時間はまずその全体が占める空間の拡大、停止、老化とそれまでの全時間はコマ送りになっていて、その時間は主に内部で進行していくものである。それが外部化するのは、機能の衰えが有機体という過程に淀みをもたらすようになってからである。ここで、従来の有機体説との明確な区別をするために「有機体」を「有期態」と表記することにしよう。本論が新しく提示したい社会有期態説は、老人のほとんど部位が衣服によって隠されていて、その一部分しか見れないとしても、その部分におけるシミやシワなどが全体に行き渡っていること、様々な緒器官の機能が低下しているという内部の状態にまである程度の推測が可能だという事実から、全体が部分に先立っていたり、部分に優越するのではなく、身体とはそれが成体となってからは、全細胞が同期することによって、そしてそれは細胞もまた一つの全体を成しており、その細胞にも身体と同様に小器官がある。その内部の時間が他のすべての細胞と同時であること、すべての細胞は非常に詳細に区分すればそれ特有の役割を持っているということ、その固有の役割のすべては決して全体の機能に還元されることがない。その役割とは隣り合った細胞同士での小さな社会を成していて、その一部分を損傷したとしても、全体の機能を借りることなく、そのDNAを元に周囲の細胞の働きで複製されることによって元の機能を取り戻すことができる。このDNAという設計図は全細胞に平等に与えられているものであり、一細胞もある程度の独立性と自治性を持ていることの証左となっている。そのDNAによって、全細胞は固有性を保ちながら、同期することができるのだ。新しい社会有期態説は、このような有期態観に基づいて、保守的思想やナチスの社会観念に堕ちてしまった古い有機体説を生物個体との大雑把なアナロジーではなく、生物が普遍的に持っている形態や普遍的に従っている法則を、古い有機体説の全体と部分の支配・従属関係を1から考え直して、解剖学的に偏った有機体観念それ自体の見直し、福岡伸一氏の動的平衡論や生態系というより社会に近い観点に基づいて、それらを哲学的に整理することで得られた新たな「有期態」という概念を主軸に展開されていく。このように、生物学に依拠するのは全体主義者の特権ではなく、アナーコ・キャピタリストの代表格のクロポトキンも辿った道であり、彼の思索を新たに考え直すことによって構築されていくのがこの『新相互扶助論』なのである。
§7.本論考はまず社会という基盤を、その具体的な機能の分析やその多様な側面を描き出すことから出発して、それらが有機的論理構造を成した繋がりを持った樹形図を遡るようにして、〈社会とは「有期態」である〉というテーゼを打ち出すに至った。ここを一つの到達点として、この「有期態」という種子の生長をその生成される論理の流れに内在することによって、『新相互扶助論』が新しい社会哲学として成立するために必要な諸概念を実らせていくことにしよう。クロポトキンは多くの生物や歴史における「相互扶助」が何であったか、何であるかを彼の『相互扶助論』で語った。では、その先は実践に必要な「相互扶助」は何であるべきかを語らなければならない。まずはこの観念を「相互性」と「扶助行動」に分けて解明・発展させていくことにしよう。
§8.「相互性」とは社会という有期態を構成する個体同士を隔てる軟膜壁であり、同時に繋げる管状路である。相互扶助という概念を構成する2つの概念の内で相互性は、このような比喩によって芽を出した。この無期的な側面を形式的に説明すれば、それは器官と器官、細胞と細胞、個体と個体、種と種の生息域を分け隔てている空間と時間である。ここでは、カント的な思弁的理性を構成する感性の形式という観念論を展開したいのではなく、(「考える我」も含んだ内と外を持つすべての存在を論じるものとしての)実在論として打ち出したい物と物の「あいだ」の部分である。近い遠いという空間的な感覚が物などの図の実在に対する地の実在を日常生活で語る語彙として認めるならば、要するに地と図というゲシュタルト心理学から借用した相補的な面があることを実在論として語り得るならば、「相互性」とは正にそれを哲学的に語る時の実在の地の側を意味していることになる。これに対置されるのは「排他性」という概念であり、これが部分としての側面もある全体を独立・自立した一つの全体としても成り立たせることを説明する為のもう一つの語彙である。そして、「扶助行為」とは、これまでの考察で得た概念のうちの2つを総合した「社会的相互性」が成立していることを条件とする「現象」である。そして、その現象に対置されるのが、競争や淘汰という語彙で説明される行為−現象である。