グッドルッキング吸血鬼たちの顔が近い!情が重い!映画感想「モービウス(2022)」
この記事は『モービウス』のネタバレを詳細に含みます。
≪予告≫
スパイダーマンの敵役として登場するマーベルコミックのキャラクター、モービウスを実写映画化。血に飢えたバンパイアと人々の命を救う医師という2つの顔を持つ主人公マイケル・モービウスを、オスカー俳優のジャレッド・レトが演じる。天才医師のマイケル・モービウスは、幼いころから血液の難病を患っている。同じ病に苦しみ、同じ病棟で兄弟のように育った親友のマイロのためにも、一日も早く治療法を確立したいマイケルは、コウモリの血清を投与するという危険な治療法を自らの肉体を実験台にして試す。その結果、マイケルの肉体は激変し、超人的なスピードや飛行能力、周囲の状況を察知するレーダー能力が身につくが、代償として血に対する渇望に苦しむこととなる。自らをコントロールするために人工血液を飲み、薄れゆく人間としての意識を保つマイケル。そんな彼に対し、マイロも生きるためにその血清を投与してほしいという。同じころ、ニューヨークの街では次々と全身の血が抜かれるという殺人事件が頻発する。マイロ役はテレビシリーズ「ザ・クラウン」や映画「ラストナイト・イン・ソーホー」のマット・スミス。「デンジャラス・ラン」「ライフ」のダニエル・エスピノーサ監督がメガホンを取った。
出展 : https://eiga.com/movie/92502/
≪ネタバレなし感想≫
近代ホラーといえば吸血鬼にフランケンシュタインの怪物に狼男。思えば、ベラ・ルゴシよりもずっと前から吸血鬼映画というものは鉄板なわけです。それからも『アンダーワールド』、『トワイライト』に『ぼくのエリ 200歳の少女』……色んな作品が作られて、お約束を増やしたり増やさなかったり、時が流れても吸血鬼映画というものは受け継がれてきました。
そんな吸血鬼映画界隈が送る令和最新版こと『モービウス』、109シネマズ二子玉川にて鑑賞!
古来より続く吸血鬼一族の末裔……とかではなく、遺伝子疾患の治療の一環として図らずも吸血鬼っぽい能力を得てしまうマイケル・モービウス医師をジャレッド・レトが演じる今作。系統としては、モンスターパニックなんかに多い「後付け」で吸血鬼になっちゃったタイプ。吸血鬼になって初めての食事には我を忘れてしまったり、それを悔いて人の血は飲まないと自らを戒めたり……マーベル原作の所謂アメコミ映画なんだけれど、作りとしては丁寧すぎるほどに吸血鬼映画のお約束を拾って、綺麗に整えてる印象がああった。自身と同じ遺伝子疾患を持つマイロ(マット・スミス)と、同僚であり恋人のマルティーヌ(アドリア・アルホナ)、二人の恩師であり今はマイロの主治医となっているニコラス(ジャレッド・ハリス)吸血鬼映画に特有の三角関係も完備。友人との対立や、喪失を経て、最後にはモービウスが吸血鬼(っぽい能力なだけで別に吸血鬼ではないんだけれども)として生きていくことを選ぶ、そんな映画だ。
主人公のマイケル・モービウスは何か腹に一物抱えてることの多いジャレッド・レトが演じているにも関わらず、真っ当すぎるほどに真っ当な善の人だ。歩くのにも杖が手放せず、透析を怠れば死んでしまう。そんな過酷な状況にあっても、恵まれた自らの才能を医学の道に用いて多くの人を救い、挙句に賞まで貰えちゃう。そして、悲劇の引き金を引いてしまう発端になったのも、自分と同じ病に苦しむ少女や友人への思いから。吸血鬼になった後も人を殺したくなんてない、もしそうなるなら先に自ら命を捨てようとする……。こうしたキャラクターはもう散々運命という脚本に虐められるしかない。吸血鬼映画だもの。
吸血鬼映画のジャンルに恥じず、画面を彩るキャラクターも魅力的だ。特に際立っているのはマット・スミス演じるマイケルの親友、マイロ!マイロとマイケルは隣同士のベットで育って、同じ疾患を抱えていて、大人になった今でも友人として、お互いをリスペクトしあう間柄。お互い初めて出会ったときの会話をずっと覚えていて、両者ともに顔がグッドルッキングときたら、もう擦れ違いの果てに殺しあうしかない。吸血鬼映画だもの。
映画が進むにつれて、マイケルは遺伝子疾患の治療用血清の開発に成功する対価として、あまりにも過酷な運命と対峙させられる。動かなかった足で歩き、泳げなかった体で泳ぎ、人を救ってきた腕で人を殺し……最後には、ずっと一緒にいたはずの友人と、自分が血清を開発したまさにその理由だった……マイロと血で血を洗う決戦を強いられることになる。
ただ、病魔に苦しむ人を救おうとしたはずの善の男が、ボタンの掛け違いから自らの人生を悉く失っていき、最後には忌み嫌ったはずの吸血鬼であることを受け入れ、夜の闇に消えていく。悲劇的な結末を迎えると同時に、ある種のカタルシスを感じながらコウモリと飛んでいく様は、まさしく令和最新版にアップデートされたドラキュラの描きだす悲哀だろう。
僕自身の感想を言えば、100分くらいの尺の中に吸血鬼もののお約束と、何より余りにも濃密なブロマンス、それにアクション!全部詰め込まれていて、かなり好きな映画だ。ダニエル・エスピノーサ監督作品というと、最近だと『Life ライフ』でカルビン君が大暴れしていた印象が強かったり(そういえば、映像ライブラリの関係で『ライフ』が同じマーベル原作の『ヴェノム』の前日譚ではないか?なんて噂もあったね)、どちらかというと情景描写よりプロットと画面の妙で魅せる監督だというように思っていたのだけれど、背景を用いた暗示的な手法はそのままに、今作では人物間での関係性が濃密に描かれていて少しびっくりした。一見すると口も悪いし悪態もつくマイケルだけど、客席からちょっと眺めていれば分かりやすすぎるほどのお人好しで、そんな彼と対立するマイロでさえも、病魔という普遍的な面を通して、客席からは痛いほどすれ違っていく思いが理解できる。相手を思いやるがゆえに運命に弄ばれ、願いを叶えたことへの重すぎる代償を支払ったマイケルは、コウモリばかりを友として色付きの風となり、観客の心へ寂寥感と幾ばくかの開放感を残して去っていく……そういう意味で、まさしくこれは現代の吸血鬼映画なのだろうと思う。
まぁ、そのあとには、ちゃんとアメコミ映画のお約束も抑えてくれていました。ちょっと余韻がアレな感じもしたけれど、そういえばこれスパイダーマン関連の映画だったもんね。
以下ネタバレありの感想になります。
気持ち悪い文章なので、それでも気になる人だけ読んでください。
以下の記事は『モービウス』のネタバレを詳細に含みます。
≪真面目な考察≫
僕は、悪役のいる映画ならば、いかに悪役が魅力的かによって映画全体の面白さが決まると思っている。いや確信しているといってもいい。その点で、今作におけるメインヴィラン、マット・スミス演じるマイロは吸血鬼映画としても、ヒーロー映画としてもとんでもなく魅力的で、僕はすっかり彼の虜、自由に感想を書くと無限に脱線してしまうから、とりあえず彼を主軸に添えて書こうと思う。
『トワイライトシリーズ』ではヒロインを巡る三角関係がもっぱら焦点だったのだけれど(そういえばトワイライトで吸血鬼だったロバート・パティンソンは『The Batman 』で蝙蝠男になってたね)、今作における主眼は、マイケル・モービウスとマルティーヌとマイロの三角関係……ではなくて、マイケルとマイロの関係性だろう。いや、もっと言えばマイロからマイケルへ向いた感情の矢印だ。彼が医学博士として賞を受賞し、病床の子供たちと交流し、同僚であるマルティーヌと仲を深めあい、外の世界へ視野を広げていくのに対して、マイロは初めて会ったあの日のベッドから一歩も外へ踏み出せていない。窓際の二つのベッドで、自分だけがたった一人のマイロであると。
マイロがマイケルに抱いていた感情とは、果たして何であったのだろうか?
彼らが出会った幼少期のシーンから、何度か引用される言葉がある。「我らはスパルタ、たとえ少数でも戦う」とするくだりだ。これはテルモピュライの戦いでのレオニダス王の逸話に由来する言葉であることが明白だ。ギリシャの療養所でベッドを共にする彼らにとって、ギリシャが勝利したペルシア戦争において重要な局面であったテルモピュライの戦いを重ねんとしたのだろう。だが、ストーリーが進むにつれて、二人は、この言葉の意を違えていたことと対面させられる。
マイケルが遺伝子疾患の治療研究、その援助としてマイロを頼ったとき、彼は再びスパルタの逸話を引用する。この時、彼にとってのスパルタは同じ遺伝子疾患に苦しむすべての人々だ。ホリゾン・ラボ(これは原著のマーベルコミックにもちょいちょい出て来る組織、スーペリアースパイダーマンのちょっと前くらいでピーターも所属してたりした)で入院する少女や、友人のマイロと、自分自身と、すべての人を例えてスパルタ軍と称しているのは明らかだ。そして戦う相手とは……未だ解決策の見えない病魔そのもの。マイケルが医学という戦場で戦いを続けていられるのは、そうした善性からだということが明示される。では、マイロは?
彼らが初めて出会ったシーンから何度も引用される言葉が、スパルタのくだりのほかにもう一つだけある。「マイロ」という名前そのものだ。本名はルシアス、マイロというのはマイケルが代々隣のベッドに入る子供へ付けていたあだ名。当初、マイロという呼び名をいぶかしむルシアスに幼き日のマイケルは言う、前に入っていた人もマイロ、後に入る人もマイロなのだと。
だが、本篇に他のマイロは現れることはない、マイケルがマイロと呼ぶのはただ一人、ルシアスだけだ。マイケルが自分をマイロと呼ぶ限り、自分こそが唯一の「マイロ」なのだと、ルシアスのアイデンティティはまさしくそこにあった。
療養所から外の世界へ踏み出したマイケルと、二つのベッドだけの世界にとどまるマイロ。この二人の対比は、マイケルが吸血鬼と化した後のラボ、そしてマイロもまた血清を使用したと示す留置場のシーン、そして二人がそれぞれの身体能力を確かめるシーンで残酷なまでに鮮やかなコントラストで描かれる。
ラボを訪れたマイロは、筋骨隆々の健康体となったマイケルへ、自身へも同じ血清を用いるよう迫るが、何よりも友人を己と同じ化け物にはさせんとするマイケルに拒まれる。人食いの化け物として生きるか、人として死ぬか。マイケルの選択をマイロは糾弾する「君は生きるが、僕は死ねと!そういうことか!?」医学の世界で人を救うべく善の人として邁進していたマイケルと、おそらくは投資の世界で生き馬の目を抜く勢いで身を削りあい立身してきたマイロ。同じ所にいるはずなのに、同じ境遇のはずなのに、同じ世界を見ていたはずなのに、今や二人の目線は違う方向を向いてしまった。
留置所のマイケルを訪れるシーンなどは、まさしく絵作りとカット割りで叙事的に人物を描写するダニエル・エスピノーサ監督の面目躍如たるカット割りだ。看守の監視下で留置所の中に籠るマイケルと、マイケルから遠ざかり、看守たちにエスコートされて扉が閉まる度に健康な肉体を取り戻していくマイロ。そして、完全な吸血鬼として外へ解き放たれた時、マイケルは彼が血清を打ったことに気が付く……彼が置いていった杖を見つけることで。
病という鎖から解き放たれ、外の世界へ踏み出したマイロはもうノリノリだ。そこらの屋台の店主を手当たり次第に喧嘩売って襲うし、それを咎めに来たマイケルとは至極嬉しそうに喧嘩する。当たり前だ、彼らはそんな幼少期に迎えるべき当たり前のことすら、病に奪われていたのだから。だが、結局マイケルはマイロへ危害を加えることもなく、逃げるようにその場から離脱してしまう。
面白いのは、マイロが吸血鬼としての肉体を堪能した末に、結局狭苦しい自室の中に戻ってきてしまうことだ。駅の守衛をのして踊っていた記憶を上書きするように、『アメリカン・サイコ』とかゲイリー・オールドマンが例の動きで暖簾を潜ってきそうな雰囲気の自室で、型稽古の様に体を動かし続ける。マイケルが肉体を試していた場所が、彼にとって外の世界であることを暗示するラボだったのに対して、マイロが肉体を試しているのは黄色い壁紙に、恩師であるミハイルが診察に訪れる自室そのもの。マイロは、病を振り切り、健康な肉体でもって外の世界へ一歩踏み出したにも関わらず、自ら内の世界に戻ってきてしまったのだ。ドアすらない壁を背中に、鏡と向かい合って自らの肉体を誇示する様はあまりにも閉塞的で、重苦しい。
あの頃に戻ろうとするマイロの一方で、本作では「一度変わってしまえば、元には戻らない」ことが他でもないマイケルその人に示される。彼がしばしば用いる、折り紙の形にあつらえた手紙によってだ。特に象徴的なのは、療養所を出る際に、マイロへ残した手紙。そして自らへ血清を投与する直前、マルティーヌへ残した蝙蝠型の手紙だろう。「この手紙は折り紙だ、読んだらもとには戻せない」そう記された手紙を、しかしマイロは近所の学生をぶん殴ってでも取り戻そうとしていた。
吸血鬼となったマイロは、なおも自らの世界を純化させ、開いてしまった手紙を元の折り紙に戻さんとする。恩師であったミハイルを排除し、外からやってきて、マイケルの横に立ち続けるマルティーヌを排除し、そうして最初に彼らにあった世界へ。二つだけのベッドへ、二人だけの世界へ戻さんと暴走を始める。彼にとって自らの体の変容とは、新たなステージへの進化。そして、今この世界でそのステージにいるのはマイケルとマイロだけなのだ。
そしてとうとう最終盤、念願かなって二人だけの世界で戦うマイロは……彼の知らない、蝙蝠との感応能力によって敗れさる。血清は、他でもない蝙蝠たちから遺伝子を借り受けて作り出したもの。進化などではなく、自らに足りないものを誰かから借りて補おうとした、代償でしかない。その事実を見せつけるかのように、蝙蝠たちは群れの一頭としてマイロを縛り付ける。そしてマイケルの作り出した新たな血清によって吸血鬼としての姿を失い、その腕の中で息絶える。マイケルもまた、開いた手紙を元の形に戻すことはできなかった……。
マイロにとってのスパルタ軍とは、二人だけの軍勢の事だったのだろう。そして、もう一人だけを遺してマイロは逝く。もしも、最初に出会い命を救われた時、ルシアスと呼ばれたことを覚えていれば。もしも、あと10秒だけ長く踏みとどまって、マイケルが自らをルシアスと呼ぶ声を聴いていれば。一人だけのマイロなのではなく、ルシアスなのだと、彼にとって一抹の救いとなったのかもしれない。
最後に残されたのは、友人を失い、最愛の人を失い、恩師を失い、社会的な地位も居場所も何もかもを無くしたマイケル・モービウスだけだ。マルティーヌが自らを捧げて生きながらえさせた自分の命を、勝手に断つことなどできる筈がない。一度開けば元の形には戻らない。どんなに歪だろうと、皺くちゃだろうと、生きていくしかない。彼は色付きの風となり、あてもなく夜の闇に消えていく……。
≪真面目じゃない感想≫
本作で描かれているのは、マイケル・モービウスという善の人が、闇夜に生きる吸血鬼となるかの話だ。言い方を変えれば、モービウスという良心を活かしたまま、他の道をすべて潰していく残虐な映画だ。吸血鬼もの……特に、種族としての吸血鬼が存在しているわけじゃなく、後天的に吸血鬼になってしまう系統の映画では、如何にして吸血鬼であること受け入れるのかが、あるいは受け入れない道を選ぶのか、それこそが見どころだと僕は思っている。そういう訳で、丁寧すぎるほど丁寧に、吸血鬼に変容し、吸血鬼として生きていくことを選択させたこの映画はかなり好きな部類に入る。
ジャレッド・レトやマット・スミスら俳優陣の演技から痛々しいほどに生々しい葛藤や、感情が感じられるのも良かった。何度も書いているけど特にマイロ!マット・スミスというとどうしても『ドクター・フー』でボロを着たドクターをやっていた印象が強いんだけど、今回はお騒がせでおしゃべりで博愛的だったドクターとは違って、自らの内側に向かって突き進もうとするマイロを怪演している。マイケルに向けたむき出しの執着も、自分たち以外の全てに対する疎外感、万能感、そして生々しいレトロスペクティブな情動が、ダニエル・エスピノーサ監督の構成美でもってお出しされるわけだから、恐ろしくこちらの情念に訴えかけてくる。スパルタ軍とか、折り紙とか、話がどんどん増えてっちゃうから割愛したけども、マイケルの開発した人工血液Blueと天然の血液Redと。何度か繰り返されるキーワードが違う意味を持つ、いや、それよりも前から持っていたのだと分かるのも見事な構成だと思う。マイケルが血清投与前に作った蝙蝠の折り紙は確かに彼にとってポイント・オブ・ノーリターンのタイミングだったのだけれど、マイロにとってはマイケルが外に行って、手紙をもらった瞬間こそがポイント・オブ・ノーリターンだったんだろうね。マイケルが二度だけ「ルシアス」と呼ぶのも、うつ伏せで倒れるマイロを助けようとするシーン、仰向けで倒れるマイロを殺すとするシーンで対比になっているのが悲しい。
何度かスパルタ軍の逸話が引用されるけれど、当のスパルタでは病弱な子供は7つで洞窟に棄てられたなんて説もある。幼い頃からポリスとしてスパルタが属していたギリシャ、その地に建てられた療養所で育っていたマイロは、自分達の境遇に劣等感を抱えると同時に一人洞窟を出たマイケルへ強い……まぁ、言葉では表しがたい感情を抱いてたことも想像に容易い。そういえばテルモピュライの戦いはザック・スナイダー監督の『300』何かで有名だけれど、あれもアメコミ原作だった。
アクションも、正直なところ殺陣そのものにはあまり面白みは無いんだけれど、煙のようなエフェクトだったり、新しい表現を取り入れようとしているのは良かった。何よりレーダーの演出!僕はベン・アフレックがやってた『デアデビル』が結構好きなんだけれど、是非今の技術で拾って欲しかった反響定位のソナー演出をさらに進化させてくれていて、これは本当に感激だった!音響を視覚的な演出とリンクさせて見映えが良いのもそうなんだけれど、特に印象に残ったのは心音が空気のぶれとして表れる所。マイロとマイケルでそれぞれ誰かの鼓動を確かめるシーンがあったけれど、その意味合いは全く逆。マイロは心音を聞いて真贋を見極めようとしていて、マイケルはすがるようにマルティーヌの拍動を確かめながら空を飛ぶ。やっぱりこの演出最高にかっこいいからもっとみんな使って欲しい!殺陣が面白くないとは言ったけど、戦闘シーンの組み立てはやっぱり隠喩に富んでいる。ラストバトルの前半、マイロがマイケルをビルからぶん投げたところなんて、投げられたマイケルは向かいのビルに頭からブッ刺さって、明かりのついた広告からMとOのパーツが落ちていく。それも、片方は徹底して光っている側面をカメラ側に向けない。マイケルにマイロに頭文字Mばっかりの中で、ルシアスだけは違うんだよね。戦いの前にマルティーヌは吸血鬼の弱点を諳じるが、まさしくマイロは最後の止めをパイプ串で刺そうとする。マイケルがワイヤーに空中ブランコ状態で逆さにつり下がった蝙蝠状態になるのも、まさしく前半の吸血鬼肉体試験シーンのリフレインだ。雌雄を決したのがコウモリ達だと言うのも、非常にロジカルに作られている。それは直接的にはラボの中で検証してたマイケルとマイロの対比でもあるけど、同時に外へ飛び出して行ったマイケルとの差でもある。なんたってオープニングシーンでコスタリカまで行ってるからね。合成血液と人工血液の違いを示しているのに、マイロは最後まで出血しないのも示唆的だ。この映画で血が流れたのは三度、コスタリカでコウモリを捕獲しようとするシーン、マルティーヌがマイケルの血の一滴を飲み込むシーン、そして最後の戦いでマイケルが負傷するシーン。血を流しているのはマイケルだけだ。
とはいえ、スパイダーマン関連作との合流やスーパーヒーロー映画としてみると、正直食い合わせが悪かったんじゃないかとも思う。そりゃ『スパイダーマン ノーウェイホーム』のあとどうなったんだ!?この先どうなるのかめちゃくちゃ気になってるのは確かなんだけれど、せっかく美しく一人ぼっちになったマイケル・モービウスの門出が何だか水を差されてしまったような、消化不良っぽい余韻になってしまった感じがあるのは否めない。マルティーヌが吸血鬼になるのはあまりにもお約束すぎて予想付いていたけどさ!
しかし、最後、ヴァルチャーことエイドリアンおじさんが普通に釈放されてたのは何だか笑ってしまった。そうだよね、空いた独房にいきなり知らないおっさんが現れたら事情聴いて釈放するよね……とはいえ今ヴァルチャーの自認はどうなっているんだろう?『スパイダーマン ホームカミング』ではピーター・パーカーとの触れ合いを経て光のおじさんに浄化されていたから、ドクターストレンジの魔法でピーター成分が全部抜けて、スパイダーマンとかいう全身タイツ野郎のせいで仕事もないし裏家業は台無しだし俺はムショだし家族とは離れ離れだし許せねー!とかなのだろうか?
先述のように、この本作がアメコミのスーパーヒーロー映画としてうまく咀嚼できていないと言うのを否定は出来ないのだけれど、コロナ禍での度重なる公開延期や、『スパイダーマン ノーウェイホーム』などとの公開順序の逆転と、それに伴う再撮影や脚本のリライトやらの話が聞こえてくると、製作外の要因に振り回されているのが消化不良の原因な気もする。これに関しては僕は関係者でも製作に友人がいるとか、興業スパイの忍者を放っているとかではないから何も言えない。商業作品としてマーベルipとSONYユニバースという大きな枠組みにいるからこそ発生する問題ではあるんだけど、どうにもならないのが辛い。予告にあったシーンもスパイダーマンとの関わりを匂わせるモノはだいたい撮り直されていて、その辺の裏事情を伺わせる。なんたって大きな転機になったであろう『スパイダーマン ノーウェイホーム』自体が『Dr.ストレンジ マルチバースオブマッドネス』と公開順が入れ替わって、脚本の練り直しを迫られて……なんて背景があって、しかも本作はその『ノーウェイホーム』よりも前の公開予定が後ろになっちゃったんだから、擦り合わせるのは相当な苦労だったと思う。観客の立場だと、あまり同情的になるのも良くないのだろうけれども。
そういえばエイドリアン・トゥームスを演じるマイケル・キートンは映画の『フラッシュ』と『バットガール』にもバットマン役で出演が決まってた。バットマンにして、バードマンにして、ヴァルチャー、その正体は時空を駆ける光のおじさん……。
というか先月は『The BATMAN』やってたし何か最近コウモリ男の映画連続してるんだね、何故……?
あとこれは僕が描いたターディスとコウモリ。
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