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日本の中の教育格差とは

「教育格差が課題だ」「教育格差はなくさなければならない」「今、教育格差が深刻化している」

どれもキャッチーで、ごもっともに思えます。もちろん、細かいツッコミを除けば、疑いようなくごもっともです。ところで、「教育格差」という言葉を調べてみると、以下のように説明があります。

教育格差とは、生まれ育った環境により受けることのできる教育に格差が生まれること。

Wikipedia

ただし、この言葉を真正面から受け止めることが必ずしも良しとも言えないと思います。ここでいう格差は経済的•地理的•制度的格差であり、より狭義にはボトムに焦点を当てた話だと思います。また、限定的には機会的観点と質的観点で見えるものがあるかも知れません。

ただし、例えば広く地域で差が出ること、それ自体にはあまり違和感はありません。極論ですが、アメリカと日本の教育では学ぶ国語が違うわけですから…、私たちが必死になって何年も英語を身につけようとしてる間に英語が母語の国ではもっと有意義な学びを得ているかも知れません。では、解消すべき本当の差ってなんだろう?という話になります。ある人は基礎教育と言いますし、ある人は習い事や家庭での教育と言いますし、ある人は社会勉強とも言います。ただ、どの切り口で見ても、手前で触れた機会的観点と質的観点をどう捉えるか?とも言えます。

教育というのは、不思議なことにどの学問よりも個々人がそれに対しての思想を持っています。老若男女、それこそ地域問わず、多くの人が”私の(我が家の)教育理論”を持っています。身近な存在だからという声もあると思いますが、経済学だって社会学だって法学だって、皆が社会の一員だある以上は同じです。話がそれましたが、ともすればその格差というのも実に定義しづらいはずです。

経済/地理/制度の3要素 

人が社会的に大人になるまでと考えると、日本社会においては大学進学率が過半数を超えた今では大学卒までを一つと考えても大きなブレはないと思います。18歳の参政権など社会の仕組みも変わりつつありますが、あくまでこのケースを例にして考えてみます。

経済的な格差、つまり「お金がない」が理由です。高校進学、大学進学がお金がないことによりできない。もちろん、小学校などにも言えることです。ここでは、質的観点こそ絶対ではないものの、分かりやすく機会的観点が欠落しえることが構造的に見えてきます。そして、仮に経済面が理由だとした場合に、それ単体で解決する手段があるかというと恐らくないでしょう。つまり、教育の中身ではなく設計上の課題を解消するにあたっては、制度の格差に必然的に転嫁されるからです。もちろん経済格差を…という課題もありますが、ここでは基礎教育はあくまで国が担うべきという前提に立ちたいと思います。

地理的なものもほとんど同じことが言えますが、ここには経済的格差も絡んできます。「船で渡った先にしか学校がない」「住んでいる圏内に行ける学校がない」「都市部に比べ先進的な教育が受けられない」と、ただ少し複雑になっただけで根本は変わらないです。さらに、地域によって情報格差や文化的差異がアウトプットに差を生むという考えもあります。ここでも、機会的観点は分かりやすく現れ、また質的観点も明確に現れるようになります。これもまた、単体で解決が可能かというとなかなか難しく、制度面を持って設計や経済的支援を持っての解消が現実的でしょう。

教育の質の議論になると、格差は多様化します。私立と公立の差がせいぜいステータスの違いであれば良いのでしょうが、学ぶ内容や深さ、専門性などがそれぞれ異なり、例えば私立に行かないと必要なレベルの教育が受けられないといったインドのそれに類似したものであれば厄介です。そして、この質の格差は突き詰めていくと解消は不可能です。制度上、経済的な違いには一切左右されず、どこの地域でも同じ内容が提供されたとしても、きっとA組とC組の先生は別で、同じことを教わるなどというのはやはり不可能だと思い知らされます。もちろん、人が介在しない未来的な世界線のシステムであればそれもまた制度に含め、検討していく余地は十分にあるでしょう。ただし、そもそもその議論の手前により早く実装できる解決手段もあるのでしょう。第一、質が全く画一的であることは決してメリットとは言えずむしろ日本の各所で揶揄される金太郎飴式が加速化するばかりです。

いずれにせよ、格差を生む要因はこれらの複合的なものが絡み合っており、制度が基盤として存在しているために、制度面からの根本的解決が最も求められていることがわかります。つまり、国が言うまでもなく民間や地域と連携しつつ、制度面をより良い形に変え続けていくことが大前提となるのです。

日本では何が解消されれば、教育格差は解消されたと言えるか?

こと経済的理由で選択肢が事実上狭まっているケースは最も根本的なところかも知れません。貧困という言葉だけでは全く括れないですが、日本においても貧困は大きな課題の一つです。選択肢を狭める理由もまた様々ですが、「お金がないから」は典型的な例でしょう。

例えば、「奨学金制度があるじゃないか」と言っても、例えば米国のスカラーシップとは程遠い”借金”を背負って大学に行き、社会に出てからその返済に苦しめられる。これを不幸せだと客観的に決めつけるも良くはないですが、それでも現に苦しんでいる人たちも多く、望ましいとは言えないでしょう。

例えば、家族を支えないといけないから高校には行かずに仕事をする。これもまた、本人が、はたまた家族がそれをもって不幸だと決めつけるのは良くないですが、本人が本当は高校にも行きたしい大学にも行きたいという願望が本来的にあるのであれば、望ましいとは言えないでしょう。

ただ、これまでにも述べた通りこうした分かりやすい経済的格差だけが問題ではないはずです。これをあえて学習指導要領のことばを借りて、「生きる力」が同じレベルで得られるか?という視点で考えてみます。その地域に最適化した生きる力は、概ね得られるでしょう。一方、生きる力とは学校を卒業し、社会に出てからの話が主で、そこでの選択肢を広げたり実現可能性を高めるために学ぶわけです。だとすると、地域によって主要産業や文化的背景から考えても当然偏り=格差は生じるはずです。断っておきますと、こうしたことを学校現場や教職員がすべきことと言っているわけでは全くないです。 

社会としての役割を考えると、アウトカムに責任を負うのではなく、アウトプットできるように機会を提供することだと思います。そうすると、教育を通じて得られた学力といわれる領域と道徳や倫理といわれる領域、そしてその他の社会的な領域を踏まえ、「同じだけの選択肢や世界観が見えていること」が望ましいのではないでしょうか。

つまり、冒頭に立ち返ると、「教育格差とは、生まれ育った環境により受けることのできる教育に格差が生まれること」であり、その格差には機会的観点と質的観点がある。これらには、経済的理由•地理的理由•制度的理由があり、解決の基盤には制度的改革が不可欠。それらが解消された世界線は、「子どもたちが社会に出るまでに同じだけの選択肢や世界観が見えている」状態、という仮説的な論理が成り立つかも知れません。

ただし、再三になりますが質的観点、この場合の「同じだけの選択肢や世界観」も完全なる平等の実現は不可能です。一方で、今がこのゴールから遠いが故にマイルストーンを明確にし、“平等に近づける”ことは出来ると思います。

あるべき論をもっと突き詰める

格差解消の明確な方向性やゴールがないままでは、その手段も本末転倒なものになってしまったり、旧態依然の惰性案になってしまったり、単なるパフォーマンスに終わってしまいかねません。

皆が大人になっていく中で、同じだけの選択肢や可能性を手にしているかと言うと全くそうではないです。学校だけでそうしたものを提供し切れるはずがなく、地域や社会全体がそこに対して意識的に関われる場や機会もまた早期に求められるはずです。

現に、行政の設計は部分的には理想的になりながらも、一方で部分的には課題を見過ごすものとなっています。これは、教育という枠組みの中だけで解消できるものではなく、ほとんどすべての設計と深く絡み合うものなので、実に縦割りの行政機能の弊害の皺寄せの賜物なのかも知れません。最近では痺れを切らしてから財務省が文科省を突くようなアクションも見られます。大事なのは人であり、教育においてはその制度設計こそ要です。

あくまで一つの考察を述べたまでですが、日本の中での教育格差をなくすという何となく大義名分のある、しかしながらどこか抽象的なこの大きな課題は、どういう状態が理想なのかを突き詰めつつ、論ずるばかりではなく私たちも含め実行し続け、体現し、提言し、突き動かす力を社会全体が作っていく必要があるのだと思います。

今、中教審でも様々な未来の教育のカタチが議論されています。当然その中には、こうしたことが社会実装されれば場所や生まれに左右されない教育が誰の手にも届くだろうと期待を寄せたくなるものもあります。しかしながら、一にも二にもそれを実行するための予算が必要だという現実的かつ最重要の課題もあり、ある意味で政府が本気で取り組んでくれるか次第なところもあります。今度はその目的達成に立ちはだかる具体個別の課題についても触れたいと思います。

Written by Tatsuya

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