人も、モノも、ありのままに戻っていく。
先日、半年に1回くらいのペースで会っている友人と話していて。
その人はアート分野に詳しくて、海外生活が長かったのと、時期を同じくして「自分ではじめる」というもがき体験(笑)をしていることもあって、いつも会う度に励まされているのですが、
会っていない半年間お互いまったく違うことをしていたのに、感じていることが不思議と似ていたのです。
それは、わたしたちって今「ありのままの状態に戻る」ということが求められているのかもしれないね、というお話でした。
あなたがあなたでいることが、一番の自分への責任だよ
ちょうどわたしがスリランカ帰りだったこともあり、最初はその旅の話からはじまったのです。
デンマークには対話を通して学べる「人生の学校」があると知り、いろいろ調べるうちに、目の前が海のフォルケホイスコーレを見つけて。
アートとかヨガとか瞑想とか、なんとなく授業が面白そうだなぁと思って申し込んだのですが、実はこの学校は、アーユルヴェーダの思想がベースになっている学校だったのです。
当時は会社を辞めてすぐだったこともあり、到着早々体調を崩してしまったとき、先生がくれた言葉がすごく身に染みたのを覚えています。
「これをやるべき…」
「これをやらねば…」
そういったたくさんの圧力の中で、わたしたちは日々を生きています。
そうしたたくさんの「やるべきこと」に埋もれて、
「これがあると幸せだなぁ」
「こんなことができたらいいなぁ」
ということを見つけていくことがすごく難しくなっている気がするのです。
そうするうちに、自分が本当に望んでいることがわからなくなったり、いつの間にか誰かに認められるために努力を重ねていたりします。
わたしたちはいつも、別の何かになろうとしてしまうんですよね。その裏側では、今の自分ではいけないという否定が入っていたりします。
今でもときどき、わたしもこのループにハマってしまいそうになります。
「これを学べばこういうことができるようになるかも!」
「これができるようになれば、もっと豊かになれるかも!」
けれど、一番大切なのは、わたしがわたしであるということを認めること。今のわたしでできることを見つめていくこと。
いつ来るかわからない未来のために準備し続けるのではなくて、今の自分でできることをはじめてみる。その道の途中で、もし必要だと思うことが出てきたら、そこからまた学んでもいいはずなのです。
今の日本には「わたしがわたしでいることを認める」とか、「あなたがあなたであるだけで価値がある」というメッセージがあまりに少ないような気がしていて。
何かにつけ、Being(その人の存在そのもの)よりも、Doing(その人ができること)に目が向くようになってしまっています。
けれど、わたしはこの言葉をもらってから、いろんなことが裏返っていって。「何もないわたしではじめる」ということをやってみた結果、いろんなものがすでにわたしの中にあった、ということに気づいたのです。
もしかしたら、この言葉にもう一度出逢うまでの2年間は「ありのままのわたし」と向き合うためのものだったのかもしれない、と思えたのでした。
技術が進歩すればするほど、求められるのは人間らしさ
その後出てきたのは、技術が進歩すればするほど、実は人間には「人間らしさ」が求められる気がする、という話。
世の中のすべては振り子のように動いているので、一方の価値観に一気に振れると、反動で逆側に戻るタイミングがきます。
ということは…?
わたしたちは、先端技術を眺めながら、もう一方で逆にあるものも見つめていないといけないということ。
おそらく人工知能や機械技術が進歩したときに問われることは「人間とはなんなのか」ということではないでしょうか?
機械にできない、人間らしさとはなんなのか?
わたしたちを人間たらしめているものはなんなのか?
これは一つの答えがあるものではなくて、みんなそれぞれが考えていくべきことなのだと思うのですが、わたしが思う人間らしさって、「固有性」とか「創造すること」とか「揺らぎ」とかにあるような気がしています。
例えば固有性。
わたしたちはそもそも一人ひとり違う存在なのですが、日本にいるとけっこうそれがわかりにくい社会だったりします。
けれど、旅やアートを通してその人を見つめていくと、同じ人間のカタチをしていても、その経験や思考はまったく違うことがあります。
わたしたちが「何かになろう」としたとき、それがもし外からきた価値観だったとしたら。
おそらくみんなが向かっていく方向は画一的なものになります。
画一的になればなるほど、システム化しやすくなります。
システム化されたものにオリジナリティを感じるって難しいのです。
そういう画一的なもの、システム化できるものは、もう人工知能とか機械技術にやって貰えばいいんじゃないかなって思っていて。
わたしたちはそこにしがみつくのではなくて、もはや自分を生きるほうに振り切ってもいいのではないか、とさえ思っています。
それから、創造性。
「ないものを生み出す」というところが人間っぽいなって思います。
人間はまだ、人間からしか生まれてこないですよね?
人工知能はすでにある情報の土台にして新しいものを生み出しているので、その多くはまだ何かの重ね合わせだったりコピーだったりします。
わたしたちも先人たちから学ぶことはあれど、まったく新しいものをつくり出す、とか、想像を創造していくのは人間っぽいなって思うのです。
今の教育とか人事研修でも、多様性とか、自主性とか、創造性とかはよくキーワードとして出てきますよね。
それが実際に機能しているかは別として、時代の変化に合わせて、自分たちが見落としてきたものにもう一度光を当てようというまなざしに、ちょっと希望は感じているのです。
それから、最後に「揺らぎ」。
わたしたちは迷います。迷いながら生きています。
そして、生きている間、留まることはありません。
そういう、どこに辿り着くかわからない感じがすごく人間っぽいなって思うのです。
普通コマンドを打つときとか、要件定義をするときって、ある決まった目的に対してプロジェクトを進めていきますよね。
けれど、人間が生きるということは、どこに辿り着くかわからないことでもあります。
あるときはすごく物理的な思考をするけれど、精神的な感覚に振れるときもある。感情のアップダウンもある。
歩いているうちに目的地が変更になることもある。
けれど、わたしたちはそれでも存在していることが肯定されている。
そういう感じが、実はすごく人間っぽいんじゃないかなとも思うのです。
アート作品はどこに置かれるべきなのか
話はまた少し飛ぶのですが。
実はその友人は、数年前までイギリスのビクトリア・アンド・アルバート美術館で保存修復師をしていて、大英博物館でのインターン経験もある方。あるメディアコミュニティで出会ったのですが、その方が帰国されてから、リアルで会うようになったのです。
わたしも5年くらい前からアートに興味を持つようになったので、その人とアートの話をしたり、一緒に美術館や芸術祭に行くなかでたくさん学ばせてもらうようになっていて。
そして、そこからつながっていったのが、この春東京都現代美術館で開催されていた「翻訳できない わたしの言葉」展のこと。
もう終わってしまったのですが、わたしはすごく好きな展覧会で、心に響く作品がいろいろありました。
その中でもわたしに大きな問いを残したのが、アイヌ文化の継承について問題提起しているマユンキキさんの動画でした。
たしかに、わたしも昨年大英美術館に行ったときに不思議に思ったことがあったのです。
例えば、ギリシャ・アテネにあるパルテノン神殿。歴史とか建築の教科書で、かなり最初に出てくるやつです。
パルテノン神殿の建物自体は今でもアテネにあるんですけど、そこに元々あった装飾は大英博物館にあるんです。
不思議だと思いませんか?
アテネに行っても、完全なパルテノン神殿は見れないってことなのです。
当時の人たちが、その場所で体験していたのと、同じ姿のものには出会えないということなのです。
それを聞いて、その友人が
もう一つ、マユンキキさんの動画で語られていたこと。
その話の流れで、仏像の話になったのです。
なんだか作品の話から、それを取り囲む空間とか意味とか全体性みたいな話になっていったのです。
そして、ここで最初のお話に戻るのですが、この考え方自体がアーユルヴェーダともすっごく似ているんです。
専門性よりも全体性に目をむける
わたしが、スリランカのアーユルヴェーダ施設に置かれた冊子で見たのは、こんな文章でした。
ちなみにこれ、その施設を経営している日本人オーナーの言葉なのです。
アーユルヴェーダは、その対象とする範囲がすごく広いんですよね。
簡単にいうと伝統医療という言葉になるけれど、その中には、生き方とか子育てとか生活の知恵も入っている。
その中に「よい生き方とはなんなのか?」という問いそれ自体が組み込まれていて、さまざまな分野の知識を統合しながら、世界を丸ごと理解しようとする哲学のようなものなのです。
医療という枠組みであったとしても、その症状だけに目を向けて「どう人の体が癒えるか」を考えるのではなく、「森羅万象の中において、人間とはどういう存在なのか」を問うところから、医療をはじめるのだそうです。
ちなみに、以前隈研吾さんも同じようなことを言っています。
2021年夏の、東京国立近代美術館で開催された「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」(地面に近いネコの視点で、都市の未来を眺めるというコンセプト)にあったコメントが、
建築の第一線で活躍している人が、建物と自然、その境界線を溶かしはじめていること、全体性を見ていることってすごく面白くないですか?
便利さや効率性とどう折り合いをつけるか
とはいえ「ありのままに戻っていく」ときに、今わたしたちが手にしている便利さとか効率性とどう折り合いをつけるか、という問題が出てくると思うんですよね。
でもそれも、無理やり全部元に戻しましょうっていうわけではなくて。
そこで必要なのが、全体性を見ていくということ。
まずは、自分が満ち足りるにはどのくらいのものが必要なのか知ること。
そして、ある特定の部分だけが豊かになりすぎるのではなくて、全体として良くなっていくという方向をみんなで考える、ということが救いになるんじゃないかなって思ったのです。
わたしが昨年訪れた、イギリスにあるシューマッハ・カレッジは、「ホリスティックな教育学と体感する経済学」を学べる大学院大学でした。
そこでは、知識だけを覚え込ませる学びではなくて、頭と心と身体をバランスよく使って、高い精神性に支えられた統合的な学びが行われています。
それから、経済を考えるにあたっても、ある特定のものさしで測ることやお金を稼ぐことだけに着目するのではなく、自然や生態系に目を向け、「人間としてどう循環の中に生きるか」を考えます。
そして実際にその学校に訪れたとき、創設者のサティシュ・クマールは、わたしたち日本人の持つ感覚はとても尊いものだと話してくれたのです。
たしかに元々の日本という国は、分断とか専門性ではなく、ゆるやかな境界を受け入れ、全体性を持っている文化かもしれない、と気づかされたのです。
分断されていることで、自分という人間が周りと切り離されているような感じがする。だから、他人のことや自然のことを自分ごととして捉えることができなくなっているんですよね。
けれど、みんな見えないところで本当はつながっているとわかれば、その罠から抜け出すことができます。
便利さと効率性の裏に隠されているものを知ること、その上で、自分が必要以上のものを欲しがっていると気づいたなら、ちょっと自分の身の回りを見直してみること。
どれほど小さなことに思えても、何もしないよりはきっと何かに影響していくとわたしは思っています。
ありのままを生きられると楽になる
シューマッハ・カレッジの名物授業に46億年のDEEP TIME WALKというものがあります。
これは4.6kmという距離を歩きながら地球の歴史を学ぶという授業なのですが、今自分が立っているこの地点までに、どんな奇跡が積み重なっているかを知ることができる授業なんです。
元々は、ステファン・ハーディングというシューマッハ・カレッジの教授が学生たちとはじめたものだったそうですが、彼の承諾のもと、日本でも何人かが同じ体験をアレンジして提供しています。
わたしはステファンのものに加えて、近藤瞳さんという方が開催されているものにも参加したのですが、それがめちゃくちゃ良くて。
歩いている途中にも、いろんなエピソードを話してくださるのですが、そのなかでもわたしのお気に入りがこれ。
わたしがわたしとして生きていれば、誰かから奪う必要はないんです。一人ひとりが自分にとっての必要範囲がわかっていれば、「もっともっと」と思う必要はない。
必要以上に欲しがるから、どこかの誰かの資源が足りなくなるんですよね。
だからやっぱり、わたしがわたしとして生きることからはじめないといけない。それは苦しいことでも我慢することでもなくって、今の自分が満ちていることを知るっていうことなんですよね。
ちなみに隈研吾さんも、空間に対して似たようなことを言っています。
昔の人の言葉で言えば「足るを知る」に尽きるのだけれど、それがなんとなく、貧しいような価値観とくっついているからそっちを選びづらかったり。
けれど本当は、今の自分が満ちていることに気づくっていう意味なんだと思います。
「もっともっと」という価値観は、「今足りない」という現実をより浮き彫りにするんですよね。
それが動力になる場合もあるけれど、「満ちている」状態から、溢れたものを「分かち合う」の方が優しい循環なのではないでしょうか。
なんだか話がいろんなところに飛んでしまったけれど、この時間がすっごく考えさせられるものだったので、今のこのままで言葉にしておきたいなぁと。
わたしは教育の分野で、その人のありのままが尊重されて、その才能が花開く場づくりをしたいって思っているけれど、きっといろんな分野で同じ想いがあるのなら、それはわたしにとっての希望だなぁと。
このテーマは自分のなかに何度も湧いてくるので、また時間を空けて、少しずつ整理して書いてみたいなぁと思います。
\いよいよ申し込み〆切です/