『スティルライフ』
『スティルライフ』とはどういう意味だろう? まだ英語がまるでわからなかったわたしは、stillとlifeで構成されるその単語が『静物』であると英和辞典から学んだ。『静物』といえばあれだ、美術の教科書に出てくるテーブルの上の果物。あれが静物画。
池澤夏樹さんのこの小説を買ったのは行きつけの本屋だった。まだ芥川賞をとったばかりだったのか、平積みされていた。どうしてこの作品を読もうと思ったのか、芥川賞という名前に引かれたのか、それは今となってはまるでわからない。わかっているのは書店の一般文芸コーナーで平積みされていたそのハードカバーの本を、躊躇った覚えもなくレジに持っていったことだ。
はじめて読んだ時の感想は「!?」だった。ラスト、転からの結がするすると日常のように動いていく。その当たり前のような様に仰天した。
それから、今でも覚えていたのは物語のはじめに当たる部分の『チェレンコフ光』の話と、雪の話。この前、どこかで『スティルライフ』のエンディングに……と書いてしまったけれど、雪のシーンは中盤でした。雪が降っているのか、静止した雪の中、自分と地球がせり上がっているのか。それを海岸の岩の上で見ている。今でも覚えているくらい鮮烈な印象を残して、刻み込まれるような疑似体験をした。
わたしは孤独で自由な子供だった。妹がいたけれど、そもそも気が合わなくて一緒にいたくなかった。酷い人間だと思うかもしれないが、子供の頃、わたしにとって妹はいてもいなくても同じで、一緒に遊ぶことも少なかった。その上、父母は共働きで特に母は家庭より仕事優先の人だった。お陰様でいまだに若い人に混じって仕事をしてくれているが、母親に関してはわたしは常に孤独だった。
家にはひとり、祖母がいた。祖母とわたしは常に適切な距離をとり、時折、文字通り『親交』があったけれど、それは稀で、今思うと祖母は孤独を愛していたように思う。祖母は家族の嫌われ者だった。そしてわたしは恐らく、今も昔も祖母に似ている。
冬になると時々、雪が降る。房総に住んでいるので滅多に降らなかった。つまり珍しい。雪の降るような寒い日は友だちと遊ぶこともなかったのかもしれない。和室のこたつにひとり、入っていた。寝そべってサッシから見える空を眺める。灰色に垂れ込めた雲の中から散り散りに白いものが落ちてくる。ずっとそれを眺めている。
ずいぶん長い時間、眺めていたように思う。面白かったのだ。そこでわたしは肩までこたつに入って仰向けに寝転びながら、サッシを開け放った。
静かに、それが当たり前だと言うように白いものが風に吹かれるでもなくただ、落ちてくる。わたしは雪が落とされる雲の方に目を凝らし、どこから、どんなふうにこの物体が降ってくるのかとじっと観察した。雪の方は当たり前のように次々に生産されてくる。
それがわたしのある雪の日のことだ。
『スティルライフ』を読むとどうしてもあの日のことを思い出してしまう。わたしの見た雪と、主人公の見た雪が重なる。雪の降る空と、わたしたちのいる大地は境目をなくし、どちらが上がっているのか下がっているのか、渾然一体となって判別つけがたくなる。ある、雪の日のことだ。
このところずっと読書できずにいた。量を読めと言われれば読むのだろうけど、どうにも質が良くない。頭にするりと文章が滑り込んでこない。「書くなら読め」とよく言われることだけど、とにかく悪戦苦闘しても読めない。集中すると今度は量が読めない。
通っている文芸講座で課題図書が出た。Amazonで買う時、ふと悪戯心が頭をもたげて『スティルライフ』を一緒に買った。特別な本なのでハードカバーが欲しかったけれど、絶版のようなので仕方なく装丁の違う文庫本を買った。
「書くなら読め」というのは、少しでも新しいものを仕込めというところが大きいと思うのだけど、まあ、何度も読み込んだ古い本を買ったわけだ。で、今夜するっと読んだ。何度も読んだから文章に慣れ親しんでいるのか、するりとどこかからすり抜けてくるように頭の中に物語が入ってくる。ああ、そう。本を読むってこんな感じ。
と思いながら考えていて、本を読めなくなった恐らく本当の理由に行きあたって苦笑した。ここでは書かないが、なるほど文字中毒だったわたしが本を読めなくなったわけだ。昔は一般文芸以外にもたくさんの本を読んだのに、どうしてだろうと考えるとなかなか苦しかった。周りの人はビュンビュン読んでいくのだ。
理由が見つかった以上、これからも望むようには本は読めないだろう。書けていることがいっそ不思議なくらいだ。でもまあ、お陰様で昔、人の何倍も読書をしてきた経験があるので焦らず、自分のペースで新しい本に当たりたいと思う。もうこれで無理をして目の前にたくさんの本を並べなくて済みそうだ。
別にたくさん読まなければいけないという決まりはない。確かに新しい本には新しい発見があるのだけれど、それはゆっくり探せばいい。昔の読書体験を頼りに今、小説を書いているというだけですごいじゃない? 若い頃の読書は財産。若い人にはザクザク読んでほしいものだ。
そして願わくは、読んでもらえる本を書けるといいのだけれど。ちなみに『スティルライフ』は百枚ちょっとの短編でした。無理して10万文字書くことないんじゃないかなという最近のわたしの考えに合致していてちょっとうれしかった。
さて、明日はカクヨムの短編の新しいお題が発表される。わくわく待とう。