何も感じない体
なぜ「こわい」と思ってしまうのか。
今までならばすぐに消え去ってしまっていただろうそれはまるでずっとそこに留まっているようで、何かにつけて姿を現しては私の動きを制限する。はっきり姿は見えない。ゆえに脅かされることでその存在を認める。
その正体は「こわい」ではなく、もっと別の何かかもしれない。しかしながら、今は「こわい」つまりは怖れなのだとする。己を脅かす対象から身を守る本能が働く。立ち向かう、逃げる、守ると行動を選べるとするならば私は瞬間的に逃げようとしてしまう。目の前の危機から遠ざかろうとする。
なぜ「こわい」と思ってしまうのか。
人によっては家の外すべてが危険区域になり得るだろうし、人によっては自分以外はほぼ敵として感じられるのかもしれない。
怖れは時として誰かから与えられたものではなく、自らが創造した産物なのだと思える。己が作り出したのならば、きっと消滅させることも可能だ。
あるいは別人になれば「私」を失うと同時に「怖れ」も手放せるのではなかろうか。
「こわい」と思ってしまうのは私ではない。私の脳がそう判断してしまう。
日常生活に支障が出るほど過剰に危険を感じるのであれば誤った判定だ。いくらそう私が認めたとて、脳が危険だと判断すれば私の意識は置き去りにされて身体が反応する。
強くなりたい。何も感じない体が欲しくなる。
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