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一首評:藤原建一「2022年3月5日 日経歌壇」掲載歌
真夜近く救急診療より妻を連れ帰る雪の仄明りの中
場面の選択自体が作中主体の不安の感情の表現に強く結びついた短歌だと思う。
歌のつくりとしては、句またがりを駆使して、普通の語りのようなフレーズが短歌の中に閉じ込められている。四句の途中で意味は切れ、映像としても少しずつ俯瞰の絵へと切り替わっていくようだ。
さて、この歌を私が読んだ時に唸ったのは、「連れ帰る」という動詞、あるいは場面の選択だ。
ここで「連れていく」ではなく「連れ帰る」を選択した作者はほんとうに鋭いと思うのだ。
救急診療へと家族を連れていかなければいけない状況に陥った時、確かに「連れていく」ときもひどく不安だ。
でも、それ以上に「連れていく」時は、緊急事態であり、不安を感じる暇がないのがリアルだ。とにかく早く連れていかねばという、不安以上に焦燥の感覚の方が支配的なものだ。そこでは、周りの景色など見えることはない。
一方、救急診療からの帰り。妻をそのまま病院へ託すことが出来ていれば、それはそれでひどく不安もあるが、医療機関に託せるという安心感も多少はある。しかし、病院の病棟の都合か、病状の緊急性によるものかはわからないが、救急診療まで行って、そのまま病人とともに帰宅することもよくある。
妻は今は落ち着いているかもしれないが、夜中から夜明けにかけてまた急に病状が悪化するかもしれない、その時はどうしたらいいのか、いや、その未明だけでなく、これからの日常の中で、ずっと通奏低音のように、そんな心配が心になり続けるのかもしれない、それを私は、もう若くもない私は支え続けられるのだろうか。
「救急診療より妻を連れ帰る」とはそういうことなのだ。
そして、その持続する不安の帰り道を包むのは「雪の仄明り」。決して、ぱあっと世界や心を明るくしてくれる明るさではない。むしろ、不安の感情を浮き上がらせるようなぼんやりとした明るさ。
不安の感情が精緻に描写されていく。
この短歌を読み終えた時、私は俯瞰的な光景を見る思いがする。雪の仄明りに包まれる世界全体。その中には、妻とともに帰る作中主体もいるはずであり、同じような不安を抱える人々もいるのだろう。なんと静かで無慈悲で等しく不条理な世界だろうか。