一首評:三田三郎「最敬礼」より
なんか急にわかっちゃった気がして、この一首評を書き始めている。いやもしかしたら、わかっちゃいけない短歌なのかもしれないが。
上の句は定型をあまり意識させず、下の句できれいに定型(87ではあるが)に収めてきて、短歌としてすっと成立させる、三田三郎がよく見せる韻律の短歌。
そんな短歌で書かれていることは、言うまでもないことだが訳がわからない。「家の中で襟が付いた服を着ること」が「破産を覚悟すること」とがイコールであるなんて、普通は誰も言えない。
言えないはずなのに、「家の中で襟が付いた服を」特に普段は家ではそんな服を着ないひとが着るのは、明らかに異常事態であり、それは「破産を覚悟する」ぐらいのレベルのものである……そう納得させられてしまうのだ。
このうたの背景には、例えば、イギリス紳士は破産をして無一文になるときでも一張羅を着て胸を張って家を出ていくイメージなどがあるのかもしれない(そんなシーンを漫画『勇午』でみた記憶がある)。
あるいは、破産をして家を失う瞬間は、せめてきれい目の服を着ていたい。そんなプライドが最後のよりどころになるほどに、この人は追い込まれている、とも言えるかもしれない。
そしてそれが急にわかっちゃった私もまた、追い込まれているのかもしれない。
意味のわからないロジックが切迫感を生み出してしまう……そんな魅力の短歌なのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?