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『荻窪メリーゴーランド』第1回を読む

昨日から、こんな短歌連載が始まった。

https://ohtabookstand.com/2022/07/ogikubo-01/

著者は、歌人の鈴木晴香さんと木下龍也さん。お二人とも私にとっては「憧れ」であるとともに、(私が勝手にだけれども)「師匠」と思っている歌人。そのお二人による短歌連載となれば、興奮せずにはいられない。

連載の題名は『荻窪メリーゴーランド』、形式としては、二人が交互に短歌(相聞歌)を詠み合うというもの。編集による冒頭のあおり文には「言葉の魔術師たちが紡ぎ出す虚構のラブストーリー。ふたりが演じる彼らは誰なのか。どこにいるのか。そしてどんな結末を迎えるのか」とある。

第1回のタイトルは「くちづけるとは渡しあうこと」、今回詠まれた短歌の中の1首の一部から抜き取られたフレーズだ。もうこれだけで痺れる。

今回は、二人で8首づつ、計16首の構成。ここから見えてくる景色は「夏の海辺での花火を見にきた恋し合うふたり」だ(タイトル写真が鎌倉・七里ヶ浜から江ノ島を臨む夕景であることにも引っ張られているが)。

今回の連作は「花火の始まる前の夕暮れ時から花火が終わる夜までの時間経過」の順に詠まれているようだ。また、双方の歌のつくりでの影響の受けあいも見えたりする(「丸括弧」を使った短歌が並んでうたわれていたり)。

このような連作を、お二人はどのように制作していったのだろうか。お互いで1首づつ詠みあいながら進めていったのだろうか。それとも大枠の流れを決めておいて、詠んだ短歌を並べ替えていったのだろうか。制作の過程や現場を知りたい気持ちになってしまう。

さて、これらの短歌、(批判をされるのは承知の上でこういう書き方をするが)多くの人は男女の情景として読むだろう。

アイコンおよび作風(までわかるほどの力量は私には足りていないかもしれないが)から類推するならば、左(青色の吹き出し)は女性であり鈴木晴香さんが、右(緑色の吹き出し)は男性であり木下龍也さんが詠んでいる、そう捉えるのが一番たやすい。

しかし、本当にそうだろうか。

まず、ジェンダーのあり方については、簡単に断ずることはできない。おそらくはこれは連載が続くあいだ、ひとつの問いとして残されるのではないか。

そして私は今なにより考えているのは、「木下龍也さんが鈴木晴香さんの、鈴木晴香さんが木下龍也さんのふりをして詠んでいるのではないか」という可能性である。

確かに「髪の先端から火の匂い」や「去年から置き去りの手花火」の下の句での句跨りのドライブ感や「くちづけるとは渡しあうこと」というフレーズはとても鈴木晴香さんらしいと感じさせる。

一方「斜めの夜をご覧ください」というような異なるモードのフレーズの挿入や、「喪主めいている」という比喩。こちらはとても木下龍也さんらしいと思わせる。

だが、このお二人なら、そういうことをテクニックとして駆使して真似をしつつ、ご自身ならではの短歌を生み出すことが出来てしまうとも思えるのだ。そうやってこの連載は、読者を虚構の深淵へと引きずり込もうとしているのではないだろうか。

いや、もうよそう。初手からこんな深読みをするのも野暮というものだ(しかも見当違いの可能性は甚だ高い)。しばらくは、ふたりの気鋭の歌人が生み出す虚構に気持ちよく振り回されることにしよう

連載は月1回で、次回は8月18日(木)17時公開予定とのこと。今から楽しみである。

追記:今回の短歌の中では次の2首がとても好きでした。

参列者めいたぼくらが砂浜で見上げる月は喪主めいている
きみが見た夜がわたしのものになるくちづけるとは渡しあうこと

鈴木晴香・木下龍也『荻窪メリーゴーランド』第1回より引用

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