一首評:三田三郎『もうちょっと生きる』より
単線の電車が今朝も這ってきて終点のない日々が始まる
(三田三郎『もうちょっと生きる』収録)
この短歌は、「這う」という動詞の選択の絶妙さが生命の一首ではないだろうか。
ここで選択されうる動詞はいくつかある。最も平凡かつ穏当なのは「やってきて」だろう。あるいは字余りにはなってしまうが「走ってきて」、五音におさめようとするなら「走り来て」も考えられるかもしれない。
しかし、作者はここで「這う」を選択する。これによってまず、この「単線の電車」のスピードはぐっと落ちる。のそのそと走ってくるイメージ。スピーディさはない。さらにスピードの遅さだけでなく、低空飛行感(いや、もちろんどんな電車も空を飛んではいないのだけれども……)も演出される。電車のみならず、自分も含め世界がどんよりとした低空飛行状態にある感じ。
「つたふ」という動詞の選択ひとつで「低さ」が見事に描かれた佐藤佐太郎のこの短歌を思い出す。
サイレンの朝くらき街をつたふ時かすかになりし音ここに聞こゆる
佐藤佐太郎「層雲」より(『歩道』収録)
さて、ここで思う。この短歌において、のそのそと「這ってきて」いるのは「単線の電車」だけなのだろうか。
この短歌では、上の句で「単線の電車」が描写される。一方、下の句では「終点のない日々が始まる」と書かれる。こちらはおそらく、作者自身の日常のことだろう。電車の運行のように淡々としていて、でも明確な終わりはない、そんな仕事や生活の雑事をこなす低空飛行な日々のイメージ。
とすると、「単線の電車」とは作者が自身を仮託するものでもあるのではないだろうか。
この短歌が収録された歌集『もうちょっと生きる』の第1章には、こんな短歌も収録されている。
単線の電車は遅いと言うけれど人を殺せる速さで走る
(三田三郎『もうちょっと生きる』収録)
この短歌で描かれる「単線の電車」は明確に遅い。遅いがいざとなれば人を殺せるだけの暴力性はある。そう歌われている。単線だから、前後の見える範囲に他の電車はなく、対向電車とすれ違うこともない。孤独だ。
孤独で、周りからは遅いと言われ、実際にのたのたと遅いのかもしれないし、日々淡々と走り続けるしかないが、いざとなれば人を殺しうる暴力性も内在している……こんなふうな人物像を作者は思い、それを描くために「這う」という絶妙な動詞の選択を行い、詠んだのではないだろうか。
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