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一首評:阿波野巧也「たくさんのココアと加加速度」より

お団子ののったお皿を持ち上げてお祭りなんだぜんぶがぜんぶ

阿波野巧也「たくさんのココアと加加速度」より(『ビギナーズラック』収録)

祝祭にただよう高揚感と非現実感をすくい取ったような歌。

この短歌が含まれている連作「たくさんのココアと加加速度」には、(少しタイミングを逃してしまった)花見や春を描いてると思われる短歌が並ぶ。それゆえに、この短歌で描かれているのも、春の花見の景色と思われる。散りゆく桜の中で、出店の茶屋の赤い床机に坐ってお団子を食べようと皿を持ち上げる景色が頭に浮かぶ。

もちろん、茶屋の赤い床机、といったことは一つも書かれていない。でも、「持ち上げる」という動詞が選択されていることによって、〈わたし〉と「お団子」との高低の関係が規定され、自然と上述のような光景を連想させるようになっているのではないだろうか。動詞選択の巧みさだ。

それから目を引くのは、接頭辞「お」の連続によって形づくられるリズムだ。「団子」「皿」「祭り」という語は、どれも接頭辞「お」がついても不自然さを感じさせない単語でもあるため、そのリズムにも不自然さはない。

しかしよく見ると、接頭辞「お」が置かれているのは、「初句の頭」「二句の途中」「四句の頭」であり、そのおかげで四句までの「五七五七」の裏で「八九七」のリズムが響くつくりになっている。2拍3連や3拍4連といったクロスリズムの楽曲の持つ少しふわふわとした躍動感に近い。それは、。春の花見という祝祭の場にただよう独特の空気感とリンクしている。

そんな「お」の連続によるリズムを受けるかのように、結句もまた「ぜんぶがぜんぶ」という繰り返す言葉を含むリズミカルなフレーズで幕を閉じる。これもまた、祝祭の場の空気感の醸成に一役買っていると思う。

が、ここでは、音感のみならず、この率直なまでの「ぜんぶがぜんぶ」という言葉によって描かれる〈わたし〉の感覚に着目したい。

花見のような、非日常的な祝祭空間において、人は時としてめまいにも似た非現実感を感じる瞬間がある。そこで発生している事象の一切合切が、うすい膜やガラス越しの遠くで行われているような感覚。その事象には、自然や他者の行為ばかりでなく、自分自身の行動すらも含まれる

そう、この短歌の上の句で描かれる「お団子ののったお皿を持ち上げ」るという、何気ない自身の行為の瞬間すら、どこか遠いところで行われているような感覚が、ここでは描かれているのではないだろうか。

そしてその瞬間、すべては「お祭りなんだ」と気づく。この短歌は、そんな気づきで幕を閉じる。祭りと同様、人生もまたいずれは終わる。一期は夢か祭りのようだ。そんなことまで思ってしまうからだろうか、祝祭空間の高揚感や非現実感は、楽しくもあり、切なくもある

「ぜんぶがぜんぶ」はリズムを作り出す結句であるとともに、そんなアンビバレンツな感情を受けきる結句である、と思う。



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