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一首評:渡辺松男「鏡と時間」より(その2)

大きなる鏡には蒼穹(そら)全体をうつして鏡の奥に特攻

渡辺松男「鏡と時間」より(『ねむらない樹』Vol.8 収録)

この短歌自体が誘う虚構の強さと、連作の中で位置付けられるからこそ見えてくるイメージ……そんなことを考えさせられる短歌だ。

」という単語が上の句、下の句で1回ずつ出てくる。「鏡」という言葉や存在にいやがうえにも目が向けられるようになっている。

「大きなる鏡」というものがどういう鏡なのか、どれぐらい(何と比較して)「大き」いものなのか、具体的なことは言及されていない。されてないが故に、各々が頭に浮かべる普遍的な(しかし身近な)鏡が想起される。

歌全体が作り出すイメージは、鏡というものは、これまでに映してきたものを重層的に内包している、という「虚構」だ。それゆえに、「鏡の奥」には、過去(おもに第二次世界大戦にて)行われた「特攻」する飛行機が見える、という歌だ。

おそらく空を表現するのに「蒼穹」という少し古めの(梶井基次郎の短編小説のタイトルにもなっているような)言葉を使っているのも、この「時間の重層性」「過去の積み重ねの内包」のイメージに繋げやすくするためだろう。

さて、この短歌、単独で読んでも、上に書いたような「虚構」に十分引きずりこむ力があるとは思う。

思うけれども、この短歌はやはり、これを含む連作の他の短歌との相互作用によって、よりそのイメージが際立つ作りになっていると思う。

この短歌は、渡辺松男の連作「鏡と時間」の中の1首。もう少し細かく書くと、連作「鏡と時間」はさらに細かい連作群に分かれていて、その中の小連作「鏡」の最後にこの短歌はおかれている。

この小連作「鏡」の短歌のほとんどが、「鏡というものはそれまでに映したものを重層的に内包している」「さらにはその映されたものが鏡の中の時間では永劫続いている」というイメージに基づいて歌われている。

加えて、「鏡というものは人を惑わせるもの、幻視に誘うもの」というイメージも繰り返される。

これが繰り返されているからこそ、ここで取り上げた短歌にて描かれる、ともすれば突拍子も無いイメージも、すんなりと心に入ってくるのではないだろうか。

連作の設計のセオリーは不勉強ゆえわからないが、これはとても巧みなつくりなのではないか、と思う。

さて、この連作を読み進めていくと、素直な見方をすれば、この短歌での「大きなる鏡」というのは具体的に何か、という推測はつく(特に9首目によって)。おそらくはそれが正解だろう。

ただ、それでもこの短歌を読んだ時に、私の頭に浮かんだのは、和室になんということもなく置かれている三面鏡が映す空に一瞬映り込んだ特攻機の幻影だ。過去ではなく、未来の青空に飛び交う戦闘機の幻影。

この短歌はそういう読みも許容してくれるのではないか、と思っている。

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