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一首評:松村正直「靴箱」より
君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く
ひとつ単語が置かれていることで生まれる詩情、ということについて考えたくなる短歌。
歌人・松村正直の第一歌集『駅へ』に収録されている連作「靴箱」の中の一首。この歌集は、前半はフリーターでデラシネな時期に詠まれた短歌で、後半は定住と結婚を決めてゆく時期に詠まれたもので構成されている。この短歌は後半のものの一つだ。
さて、私はこの短歌で「夜明けへ」という言葉に注目したいのだ。
この歌で描かれている事象は、この「夜明けへ」を除いた部分だけでほぼ十分に表現されている。(おそらくはこののち妻となる)恋人の住んでいる町にフェリーで十二時間かけて向かっていく、というものだ。
でも、ここで「君の住む町へ」ではなく「君の住む町の夜明けへ」とたったひとつ単語が挿入されることで、景色の解像度がもう一段階上がり、詩情が生まれている。それはまるで鮮やかな手品のようだ。
加えて、筆者(もしくは短歌の中の主体)のそれまでの軌跡を歌集で追体験しているからこそ、「夜明けへ」という言葉がより効いてくるのかもしれない。
この短歌では、もうひとつ。動詞の選択の巧みさについても触れておきたい。
それはこの歌の結句の「運ばれて行く」だ。デラシネな生活から定住への決意。そこには強い能動性もあるが、しかし一方で人生には「まわりからなんとなく決まっていく」感じ、すなわち受動性も必ずつきまとう。ここで「向かってゆく」とか「旅立ってゆく」ではその受動性が出ない。自分で決めたことであるとともに、何がしかの大きな流れが決めたことでもある……その感覚が「運ばれて行く」という動詞の選択で表現されているのではないだろうか。