一首評:渡辺松男「鏡と時間」より(その1)
一瞬の、本当に一瞬の描写、そしてその瞬間に枝分かれする「私」と「時間」が描かれている歌。凄い歌だと思う。
まず、歌の前半(正確には四句の途中まで)、「ロングシュート」という言葉自体の意味はもちろんのこと、「ボール」「シュート」「ボール」と長音を含む語が続くことで、「引き延ばされる時間」が音で演出されている。
この前半の演出のおかげで、「ボールとゆび」が離れる瞬間が、本当に本当に一瞬であることが意識させられる。離れる一瞬の時間と空間が切り取られ、まるでクローズアップのスローモーション映像を見ているようだ。
だが、それ以上にこの短歌で痺れるのは結句のこれだ。
自他となるとき
ここ、凡百の歌人だったら、前半の長音の演出で離れる瞬間が描けただけで満足して、たとえば「はなれる刹那」とか詠んでしまうと思う。私なら多分そうするだろう。
しかし、渡辺松男はここからも手を緩めない。「ボールとゆび」が「自他となる」と表現する。物理的に離れることはもちろんのこと、「私」と「私以外」に分かれる、と表現する。
さあ、ここで読み手としてはこう考えてしまう。
「ボールとゆび、どちらが『自』でどちらが『他』だろうか」と。
もちろん、普通(?)に考えれば、「ゆび」は自身の身体の一部だからこちらが「自」だ。そしてその「ゆび」から離れた「ボール」の方が「他」だ。さっきまでは自身と一体であるかのように手に吸い付いていたボールが指から離れ「他」になる瞬間。
しかし、本当にそうだろうか。
得点への、勝利への祈りを込めて投げられるロングシュートの「ボール」こそ、「自」なのではないか。祈りそのもの、私そのものなのではないか。そして、滞空時間の長いロングシュートの「ボール」がゴールに届くまでの間、「ゆび」そしてその持ち主の方が、ある種の虚無、ある種の忘我にあるのではないか。「ゆび」の方が「他」である長くて短い時間。
「自他となるとき」と表現されることによって、「私」が枝分かれして存在する平行世界の現出(幻出)を見る思いがする。
加えて、想起される映像も複層的になるのではないか。
前者を想定した時には、「ゆび」あるいはその身体の主からの視点、「ボール」がゴールへと遠ざかっていく視点の映像が頭に浮かぶ。
一方、後者を想定すると頭に浮かぶのは、バスケットコート(あるいは「ゆび」の持ち主)を俯瞰しつつ「ボール」を追うような映像だ。
「クローズアップのスローモーション」で終わるはずだった映像に、「ゆび」の持ち主視点と俯瞰の映像を切り替えつつ、ロングシュートされた「ボール」の滞空時間が複層的に描かれる映像が加わる……そんなイメージだ。
結句の表現ひとつで、一瞬の劇的な描写にとどまらず、そこから複数の可能性の時間へと世界は拡がっていく。渡辺松男の凄さの片鱗を見た気がする。