ドビュッシーに寄せて―温故知新の輝き

かのボードレールは、熱烈な言葉を贈った。

「あなたは私を、本来の私へと引き戻してくれた」

それは芸術そのものへの賛美であり、創作者にとってこの上ない謝辞であった。

リヒャルト・ワーグナー。

近代フランス音楽の作曲家たちにとって、これほどの危機と脅威はなかった。


1861年に《タンホイザー》がパリ初演に現れてから、熱狂的なワグネリアンがその音楽に心酔した。パリの文化人も含めて、ワーグナー芸術は麻薬のように浸透した。

文豪ボードレール、マラルメは手放しに褒めたたえた。

その陰で、不安定な情勢と相まって巣食うドイツ芸術に、我々は侵食されてはならない…という切実な想いから、サン=サーンスやフォーレは立ち上がった。

自分たちの先祖である偉大な音楽家、クープランやラモー、そしてさらにさかのぼるリュリの時代へ、行くべき道の光を求めた。

フランス芸術文化の復興活動である。


ロココ、バロックの懐古、そしてその時代の人々も題材としていた「神話」の世界は、フランスの音楽家たちの未来を照らした。

未知なるものへの憧れと幻想は、神話ならびにエジプト、インド、シルクロードを渡って中国、そして極東こと日本にまで広がった。

憧れに浸った官能は、ワーグナーの官能にも対抗しうる濃厚さを秘めつつも、フランス的美意識の枠を離れることはない。

そして幻想から現実に戻ったときの、言いようもない虚無感と頽廃は、この時代の最も象徴的なエッセンスである。

デカダンス。彼らはいつも、美を求めては苦しみ、もがき、諦め、嘲笑し、そしてなお、夢を見た。


マラルメの「牧神の午後」は、そのすべての要素を実現している。

牧神の底知れぬ欲望は濃厚に描かれ、その欲望は「夢」でしかないことを悟っている心が、重い恋煩いのように牧神を苦しめる。

そして象徴的に描かれる葦、シランクスは、儚さと哀しすぎる美しさを湛えており、どうすることもできない現実の残酷さを、奇跡的な香りと光をまとった文章で綴っている。


この詩を再現したドビュッシーの音楽は、五感を駆使した見事な作品となっている。こんなにも香りをまとった音楽があるだろうか。

革新的なディアギレフのバレエ・リュス、狂気に満ちたニジンスキーとのタッグは、より強烈にこの夢幻の世界を繰り広げたことだろう。


内面的な悲哀、ドロドロとした人間模様を、ドビュッシーは直接的には描かない。暗示をさせるだけであり、その手腕こそが品格と知性を漂わせる。

「自然の営みに目を向ければ、音楽があることに気が付く」と言ったほど、ドビュッシーは自分の考えをおおっぴろげにはしない。言う必要がないとさえ思っている。そしてそれはまた、さらけ出す、ということができないほどに壊れやすい神経を思わせる。

「自分」を極限にまで無に近づけ、より偉大なるものへの賛美、普遍的な美を3Dのように音で描き出す手法は、かえって圧倒的な存在感を放っている。

押し付けがましくない存在感、品性と妖艶の共存、明るみにしない人間の闇…

陽によって色の変わる水面のように深く誘いかけてくるこの作曲家に、私は惹かれ続けている。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/