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生姜の一滴
生姜の一滴
北の大地・北海道で生まれ育った尚海(なおみ)は、生粋のラーメン好きだった。札幌味噌ラーメンから函館の塩ラーメン、旭川の醤油ラーメンまで、地元に根付く多彩なラーメン文化をこよなく愛し、週に一度はラーメン店巡りをするのが趣味だった。
「北海道のラーメンが一番だよな。」
そう信じて疑わなかった尚海が、ある一杯のラーメンに衝撃を受けることになったのは、大学の春休みを利用して新潟に旅行に行った時のことだった。
旅のきっかけは些細なものだった。旅行好きの友人から誘われ、なんとなく同行することにした。新潟と言えば、日本酒や米どころとして名高い土地であり、ラーメンのイメージは全くなかった。ところが、地元の人々と話すうちに「長岡には独特の生姜醤油ラーメンがある」と聞き、尚海の中にラーメン愛が火をつけられた。
「生姜…醤油…なんだそれ。」
興味本位で訪れた小さなラーメン店。暖簾をくぐると、ほのかな生姜の香りが鼻腔をくすぐった。店内には常連らしきお客たちが黙々とラーメンをすすっている。メニューはシンプルで、「生姜醤油ラーメン」の一択。迷わずそれを注文した。
運ばれてきた丼には、琥珀色のスープが輝いていた。透明感のある醤油スープに浮かぶメンマ、チャーシュー、そして刻みネギ。見た目は素朴で、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
レンゲですくったスープを口に含んだ瞬間、尚海は目を見開いた。
「これ…なんだ…?」
醤油のコクの中に、生姜の風味がじわりと広がり、体中を駆け巡るような温かさを感じた。生姜の辛味は控えめで、むしろスープ全体を包み込むように調和していた。麺をすすると、モチモチとした食感がスープをしっかりと絡めて口の中に運んでくる。
「これは…体に染みる。」
北海道の濃厚で力強いラーメンとは全く異なる、優しさと深さを併せ持つ一杯。食べ進めるほどに、シンプルな中に潜む計算された美しさに気づかされる。そして何より、食べ終わった後の爽快感が驚くほどだった。
「北海道のラーメンしか知らない自分が、なんて狭い世界にいたんだろう。」
店を出た後、彼はしばらく呆然としていた。地元ラーメンへの誇りが崩れたわけではない。むしろ、その地その地でしか生まれないラーメンの奥深さに目覚めたのだ。
それからというもの、尚海のラーメン旅は本格的になった。新潟の他のラーメンを巡り、やがて全国へと足を伸ばした。そして大学卒業後、尚海はラーメン文化を研究するフリーライターとしての道を選ぶことになる。
数年後、尚海は自身のブログにこう記した。
「ラーメンは土地の記憶であり、そこに生きる人々の物語だ。俺にそれを教えてくれたのは、長岡生姜醤油ラーメンだった。」
尚海の旅は、今も続いている。そしてその背中を追うように、多くの人が彼の言葉に触れ、新たな一杯を求めてラーメンの世界に足を踏み入れていくのだった。