やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 25
第二楽章 少年時代のブラームスの物語
1、貧しき少年巨匠
「それじゃ、行って来ます・・・」
日が暮れて、あたりがたそがれ色に染まる頃、ヨハネスは金髪を風になびかせながら狭い路地を通り抜けて行きます。
彼は14歳。うつむき加減の青い瞳にまだ子供っぽさが残る少年です。
「いつもすまないね。気をつけて行くんだよ」
お母さんに見送られてヨハネスが向かったのは、小さな酒場です。
「おや、ヨハネス、今日は早いね。」
「こんばんは、おかみさん。今日もよろしくお願いします。」
店のおかみさんにあいさつして、ヨハネスはピアノに向かいました。
ここは、北ドイツの港町・ハンブルク。
古くから港町として栄えたこの街には、大きな船が出たり入ったりして、いつも活気があります。長い船旅を終えて陸に上がった船乗りたちの楽しみは、何と言ってもおいしいお酒を飲むこと。この酒場にもたくさんの船乗りがやって来てにぎやかです。
いえ、「にぎやか」などというものではありません。
お酒のにおいや、たばこの煙がお店いっぱいに広がり、店員やお客さんたちの笑い声や歌声、どなり声や叫び声で話しもできないほどの騒がしさです。
「ちょっと、ヨハネス、そんな曲じゃ踊れないよ。
もっと気持ちがぱーっと晴れるような景気の良い曲を弾いておくれ」
お店に来たケバケバしいお姉さんたちも注文をつけています。
「はい。すみません」
ヨハネスは軽やかなダンスの曲を弾き始めます。即興はヨハネスのお得意です。お客さんの無理な注文にも応えて、どんな曲でも上手に弾きこなしています。「なんだ、あの子は。やたらとピアノが上手じゃないか」
ちょっと音楽のわかるお客さんが、ヨハネスのピアノに耳を止めました。
「そうかい?あたしは全くわからないんだけどさ、何でもえらい先生にも認められている天才少年らしいんだよ。」
と、お店のおかみさんはご自慢です。
「へえ、でも何だってそんな優秀な坊ちゃんがこんな小汚い酒場で弾いているんだよ」
「汚いとは失礼だねえ。まあ、本当だからしょうがないけどさ」
「そうだよ。あの子のピアノはここにはもったいない」
「仕方ないのさ。あの子の父親も音楽家なんだけど、あまり稼ぎが無くてね。
ここで弾かせてくれって頼まれたのさ。芸は身を助けるって言うところだね」「そりゃ感心だなあ。でもまだほんの子供なのに気の毒なこった」
「おとなしくて、ろくに口もきかない子だけど、ご覧の通りなかなかの男前だから評判が良いんだよ。
いつかあの子が一流の音楽家になったらこの店も有名になるってもんさ」
おかみさんは豪快に笑い飛ばしました。
しかし、まさか本当にその少年が世界的に有名な音楽家になり、後にはこのハンブルクの名誉市民に選ばれることになるとは、お店にいた誰もが想像もできなかったに違いありません。
そう。そのかわいそうな少年こそ、ヨハネス・ブラームスその人だったのです。
ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日、ハンブルグの中でも、特に貧しい人たちが住んでいるゴミゴミした街の古びたアパートに生まれました。
お父さんのヨハン・ヤーコプは、音楽とは関係のない家に生まれましたが、どうしても音楽家になりたくて、家族や親類の反対を押し切って20歳の時に田舎からハンブルグにやって来ました。
酒場やダンスホールで演奏したり、楽団のホルン奏者になったり、都会の荒波にもまれながらもお父さんはコントラバス奏者になり、何とか音楽家として生活をしていました。そして24歳のとき、お父さんは住んでいた下宿で働いていた、クリスティアーネという17歳も年上の女性と結婚したのです。
クリスティアーネは、元は身分のある家柄のお嬢さんだったのですが、家がおちぶれてしまい、妹夫婦が経営するその下宿で働いていたのです。
彼女は、あたたかくて世話好きのやさしい女性でした。
翌年、二人の間にはエリーゼという女の子が生まれ、次に生まれたのがヨハネスです。2年後には弟フリッツが生まれ、5人家族になった一家は狭いアパートの一室で肩を寄せ合って暮らしていました。
お父さんは音楽の仕事を続けていましたが、一家の暮らしは貧しく、お母さんも夜遅くまでお裁縫の仕事をして家計を支えていました。
「ぜんたーい止まれ!前へーすすめ!」
そんな暮らしの中で育ったヨハネスにとって、おもちゃと言えばブリキの兵隊人形くらい。彼は、このお人形を色々な隊列に並べて遊ぶことが好きな内気な少年でした。(この遊びはずいぶん大きくなるまでヨハネスの好きな遊びで、兵隊のおもちゃをずっと大切にしていました。)
そして、もう一つヨハネスが好きだったものが音楽です。
狭い家の中でお父さんの楽器の練習をいつも耳にしていたヨハネスは、いつの間にかお父さんのコントラバスに合わせて歌ったり、音を言い当てたりするようになりました。
息子の才能に気づいたお父さんがヨハネスにヴァイオリンやチェロを教え始めると、めきめき上達。五線譜を知らないうちから、自分で工夫して楽譜を作り、作曲もするようになりました。そして、小学校に通い始めた頃、ヨハネスは、「お父さん、ぼくヴァイオリンよりピアノが習いたいなあ」
と、言い出しました。
もともと、両親はとても教育熱心で、貧しい生活にもかかわらず子供たちをお金のかかる学校に通わせていました。良い教育を受けさせて、いつか今の貧しい暮らしから抜け出したいと思っていたのでしょう。
「ピアニストか。うん、それも良いかもしれない」
そう思ったお父さんは、ハンブルクでも有名なピアノの先生であるコッセル先生のところへヨハネスを連れて行きました。
「これは、すばらしい。この子は立派なピアニストになりますよ」
コッセル先生はすぐにヨハネスの才能を見抜き、一生懸命教えてくださるようになりました。ちゃんとしたピアノを持っていないヨハネスが十分に練習できるようにと、先生自身がヨハネスの家の近くに引っ越して来たほどです。
そして10歳になったヨハネスは、お父さんが開いた音楽会でベートーヴェンやモーツァルトの室内楽曲(ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラとピアノのための合奏曲)のピアノパートを見事に演奏して、お客さんたちを驚かせました。
驚いたのはハンブルクの人だけではありません。この演奏会を聞きに着ていたアメリカの音楽プロデューサーは、ヨハネスに大変感心して
「どうですか、お父さん。私にこの子を預けてくれませんか?アメリカに連れていけばすぐに人気者です。相当のお金が稼げることは、私が保証しますよ」
と、持ちかけてきました。
これで少しはまともな暮らしが出来るかもしれないと、お父さんはこの話に乗り気になりますが、
「アメリカ?とんでもない。
そんなところへ行ってもすぐに飽きられてしまいますよ。
それにこの子はまだ勉強の途中です。
大切に育てなければ元も子もなくなりますよ。」
と、コッセル先生は大反対。確かに、この時アメリカに行ってしまったら、ブラームスという大音楽家は生まれなかったかもしれません。
実は先生には他に考えていることがありました。
「それより、私はヨハネスを私の先生である作曲家のマルクスセン先生のところへ連れて行きたいのです。ヨハネスには作曲の才能もあるんじゃないかと思うんですよ。」
「マルクスセン先生!あんな有名な方がヨハネスを教えて下さるんですか?」
お父さんも、大喜びです。
マルクスセン先生はハンブルグでは一番有名な大先生だったのです。
けれど、一人前の音楽家しか教えないマルクスセン先生は初め、まだ少年のヨハネスを教えることに乗り気ではありませんでした。それを知ったお父さんはマルクスセン先生のところへ出かけて
「うちは貧乏ですが、あの子には才能があるんです。何とか一人前の音楽家になれるように、どうか息子を教えてやってください。お願いします」
と、熱心に頼みました。
お父さんの熱意に押されてヨハネスを教えることを渋々承知したマルクスセン先生ですが、実際にヨハネスを教え始めると、その才能の素晴らしさや、努力を忘れない人柄にすっかりほれ込んで、ピアノや作曲だけでなく、バッハやベートーヴェンなどの名曲や、音楽のさまざまな知識をそれは熱心に教えてくださいました。
ヨハネスが14歳のとき、同じハンブルク生まれの作曲家メンデルスゾーンが亡くなるとマルクスセン先生は、
「メンデルスゾーンより大きな才能が、このヨハネス少年の中で花開くに違いない」
と、断言しました。そして、その予感はやがて現実のものとなっていくのです。
しかも、ブラームス家がお金持ちではないことを知っている先生は、レッスン代をいっさい受け取りません。厳しくもやさしいマルクスセン先生を心から信頼し、尊敬していたヨハネスは、立派な作曲家になった後でも、新しい曲が出来ると必ずこのマルクスセン先生に見ていただいていました。
コッセル先生とマルクスセン先生。
この二人の先生の正しく、温かい指導のおかげで、ブラームスのその後があったことは間違いありません。ブラームスは生涯二人の恩師に心から感謝し続け、恩返しをしていくことになります。
しかし、一方でブラームス家の暮らしは楽になりません。
それで、ヨハネスは好きな音楽の勉強をさせてもらっている代わりに、少しでも家を助けることができればと酒場やダンスホールでのアルバイトを始めたというわけなのです。
「ただいま・・・」
真夜中を過ぎて、ヨハネスが家に帰ってきました。
一晩中タバコやお酒の匂いをかいでいたせいでしょうか、頭が割れるように痛みます。
「ヨハネス、大丈夫かい?頭が痛むのかい?」
「お母さん、起こしちゃったのかな?ごめんなさい。大丈夫だよ。
ほら、ぼくと姉さんは昔からすぐ頭が痛くなるでしょう?
ちょっと休めば治るから心配しないで」
しかし、何と言ってもまだ14歳。
真夜中までの仕事が身体に良いはずがありません。
「あなた、こんな暮らしを続けていたら、今に本当にヨハネスは病気になってしまいますよ。」
「ううむ。確かに顔色も悪いし、何だかふらふらしているようだ。困ったな」
と心配する両親に
「それなら、ヨハネスを夏の間私の家に預けてみないか?」
と、お父さんのお友達のギーゼマンさんが救いの手を差し伸べてくれました。
ギーゼマンさんは、ヴィンゼンというハンブルクから少し離れた静かな村に住み、工場を経営していましたが、大変な音楽好きだったのです。
「ちょうど娘のエリーゼにピアノを教えてくれる人を捜していたんだよ。
私もヨハネスの伴奏で好きな歌を歌えたら楽しい夏になるし。
そうだ、私の村には男性ばかりの合唱団があるから、そこの手伝いもしてくれないかな。
空気の良いところで少しゆっくりすれば、ヨハネスもきっと元気になるよ」
こうして、ヴィンゼンにやってきたヨハネスは、美しい川のほとりにあるのどかな田舎の風景を見て、生き返ったような気持ちになりました。
「なんてきれいな所なんだろう。
あのゴミゴミしたハンブルクの街とは大違いだ。こんな所にずっと住んでいたいなあ」
おいしい空気や豊かな自然は、ヨハネスの心と体をいやす一番の薬になりました。音楽家の友達もできましたし、ギーゼマンさんに頼まれた合唱団では指揮をして、さらに素敵な曲を作って感謝されます。
「男性合唱はなかなか良いものだな。また曲を作ってみたい」
と、すっかり合唱が気に入ったヨハネス。
実際、ブラームスは後にたくさんの素晴らしい合唱曲を作っています。
やがて秋が来て、ハンブルクに帰る日がやって来ました。
「お世話になりました。ギーゼマンさんのおかげでぼくもすっかり元気になったし、本当に楽しい夏でした。何とお礼を言ったら良いのか・・・」
「またいつでも遊びに来なさい。みんな待っているよ」
「ありがとうございます。必ずまたうかがいます」
こうして、ヴィンゼンはヨハネスにとって第二のふるさとのような場所になり、その後もたびたび訪れるようになったのです。
実は、ヴィンゼンにいる間もヨハネスは何度かハンブルクに帰ってマルクスセン先生のレッスンを受けるなど、音楽の勉強を続けていました。
ヴィンゼンから帰るとすぐにヴァイオリンのコンサートにゲスト出演してピアノを演奏しましたが、若くて力強いピアニスト・ブラームスを新聞は「少年巨匠」と書いてほめたたえます。
翌年15歳になると自分のリサイタルも開き、これも大好評。
リサイタルは次の年も開かれ、ベートーヴェンの作曲したソナタ「ヴァルトシュタイン」や自分の作曲した曲を演奏するなど、ピアニストとして、音楽家として本格的に活躍するようになったのです。
もちろん、作曲も続けています。
いえ、ヨハネスはピアニストとしてというより、むしろ作曲家になりたいと思い始めていました。
マルクスセン先生の指導のもと、めきめき作曲の腕を上げたヨハネスですが、彼は自分にとても厳しく、少しでも気に入らないところがあると、せっかく作った曲の楽譜も次々と焼き捨ててしまうのです。
あのヴィンゼンで作った合唱曲の楽譜も、ギーゼマンさんから取り返して焼いてしまいました。若いブラームスの作品が失われてしまったことは、後の世の私達にとっても残念なことですね。
現在、残っているこの頃の作品では18歳のときに作曲したピアノ曲「スケルツオ」(作品4)が有名です。ダイナミックで、力強いこの曲は、若いブラームスの心の中にある夢や希望が感じられる素晴らしい曲になっています。
ちょうどその頃、ロベルト・シューマンとその夫人クララがハンブルクで演奏会を開きました。
それを聴いたヨハネスは、すっかりシューマンの音楽のファンになり、自分の作曲した曲を見てもらおうとシューマンに送りました。ところが、シューマンはとても忙しかったため、封も開けないで楽譜を送り返してきたのです。
「やっぱり有名な音楽家は、ぼくみたいな名も無い音楽家の卵なんかに興味は無いんだ」
ヨハネスのショックは大きなものでした。
もう一つ、この頃ヨハネスが夢中になっていたのは読書です。
ヨハネスが11歳から通った学校はとてもレベルの高い学校で、そのせいもあってか、ヨハネスは中学生くらいの年からずいぶん難しい本も読みこなしていましたし、次から次へと気に入った文章などを「若きクライスラーの宝物の小箱」と名づけたノートに書き写していました。クライスラーというのは、彼が好きだった作家E・T・A・ホフマンという作品に出てくる音楽家の名前です。本は、この後も一生ブラームスにとって一番の友達でした。
シューマンとブラームス
似た者同士の二人の大作曲家をやがて運命の糸が巡り合わせたのは
自然な事だったのかもしれません。
こうして、貧しいながらもハンブルクで一生懸命音楽の勉強を続けていたヨハネスに、運命の女神がようやく微笑んで下さったのは、彼が二十歳を迎える春のことでした。