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やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 23
第一章 シューマンの物語
22、デュッセルドルフ
1850年、9月。
シューマン夫妻と5人の子どもたちはデュッセルドルフに到着します。
街の人たちは、あのシューマンが音楽監督として街にやってくると知り、期待に胸を膨らませていました。
ホテルではヒラーがオーケストラの団員とともに迎えにきていましたし、部屋に入れば窓の下で合唱団が歓迎の歌を歌い、夜食事をしていると今度は隣の部屋でオーケストラの団員たちがモーツァルトのメヌエットを演奏するといった具合。この地方の人たちは、今まで住んでいたライプチヒやドレスデンと違い、とても明るく陽気なのです。
感激するシューマン夫妻でしたが、暮らし始めると、デュッセルドルフの街は人と同じようににぎやかで騒がしく、その上シューマン家が借りた家は特に騒音がひどくて音楽どころではありません。
クララはまたシューマンの神経が疲れてしまうのではないかと心配でたまりません。新しい暮らしでは手違いも多く、引っ越しに思いのほかお金がかかった事も街になじめないクララの心を暗くしていました。
騒音に悩まされながらもシューマンは音楽監督としての仕事を始め、10月24日には第一回の定期演奏会が開かれました。新しい音楽監督を迎え、さらにあの名ピアニストのクララがメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を弾くとあって、会場は大賑わいで大成功。まずは順調なスタートを切りました。
こんなに落ち着かない環境にもかかわらず、5人の子どもを抱えながらクララは協奏曲を弾き、シューマンも名作「チェロ協奏曲」(作品129)を書き上げているのですから、二人の才能がいかに凄いものだったのかがお分かり頂けるでしょう。
シューマンはこの年、もう一つ大作「交響曲第三番」(作品97)も完成しています。この曲はうるさいデュッセルドルフを離れて、ライン川が流れ、大聖堂で有名なケルンという街にでかけた時の印象をもとに作られた曲なので、今日でも「ライン」と呼ばれ親しまれています。
この頃には、作曲した曲が次々出版されるようになりシューマン家の家計も少し楽になってきました。
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音楽監督としても、その年のうちに4回の定期演奏会をこなして順調かと思われたのですが、次第にオーケストラとシューマンの間に大きな溝ができてしまいます。
「今日もシューマンさんは、ぼくたちが演奏している間ずっと上の空だったね」
「何だか自分の世界に入っている感じで、どうして欲しいのかわからないんだよね。声も小さくてモゴモゴ言っているだけだし」
「今度の指揮者は凄い人だっていうから期待していたんだけどな。
全然面白くないし、明日は休むよ」
団員達の不満は大きくなるばかりで、怠けたりさぼったりする者も増えて来ました。しまいには新聞に批判の投書をするものまで現れる始末です。合唱団の練習を見に来たクララも、団員のやる気のなさにかんかんです。
しかし、そもそもシューマンは人を教えたり、まとめたりすることが出来る性格ではありません。音楽監督という仕事自体が向いていないのですが、シューマンもクララもそれがわからず、逆に何て失礼な人たちなんだと腹をたててしまうのです。こんな騒ぎがシューマンの神経に良いはずがありません。彼はまた眠れなくなり、ふさぎ込んでしまいました。
そこで、この嵐のような一年の疲れを癒すために、夏休みには一家で旅に出ることにしました。
シューマンにとって懐かしいハイデルベルクから、スイスにまで足を伸ばし、自然の中で気分もリフレッシュしたのですが、秋になって次のシーズンが始まっても、団員達との関係は悪いままです。特に合唱団との仲は険悪で、シューマンをデュッセルドルフに招いた音楽協会の人たちともぶつかるようになってしまいました。
そんな状況でも、定期演奏会は開かなくてはなりません。シューマンのストレスは相当大きなものだったでしょう。
しかし、そんな状況の中でもシューマンの音楽を作る力は弱まるどころか、とどまる事を知りません。
この不安定なデュッセルドルフ時代、時々体調が悪くて全く作曲できなくなる時期も度々あったのに、オーケストラのための曲や合唱曲、そしてヴァイオリンソナタ、ピアノ三重奏、ピアノ曲など幅広いジャンルの曲を次々と作り出してゆきます。
部屋にとじこもって、魔法のように次々と新しい曲を作り出してゆく。そんな夫をクララは尊敬のまなざしでみつめていました
「ロベルトの頭脳と才能はなんて素晴らしいのかしら。
あんなに素晴らしい人と結婚できて私は幸せだわ。
何百万という人と比べてこんなに幸せで良いのかと時々不安になるくらい。
それを思えば日々の苦労など何ということもないわ」
と、心から思うのでした。
そして、デュッセルドルフで暮らし始めて二年目の12月。
シューマン家には7番目の子ども、オイゲニーという女の子が加わりました。
その喜びに励まされるように、シューマンは以前評判が悪くそのままになっていたニ短調の交響曲を大幅に直し、「交響曲第四番」(作品120)として仕上げました。
念願だった交響曲を4作も作り上げ、シューマンはすでに一流作曲家の仲間入りを果たしていました。