やさしく読める作曲家の物語 33 シューマンとブラームス
第四楽章 ブラームスの物語
3、葛藤
協奏曲の失敗と、アガーテとの別れのショックから立ち直れないブラームスは足取りも重くハンブルクに戻って来ました。
ところが・・・
「先生、お待ちしていました。お帰りなさい」
おやおや?
落ち込んでいるはずのブラームスが若い女性たちに笑顔で迎えられています。
実は、彼女たちは前の年からブラームスが指導をしているハンブルク女声合唱団の女の子たちです。
「私も君たちに会うのを楽しみにしていたよ。・・・ずいぶん人数が増えたね」
この合唱団、元々は、音楽好きの女の子たち数人で始めた小さな合唱グループに過ぎませんでしたが、この時団員は28名に、のちに40名になって立派な合唱団になりました。
「先生みたいに立派な方に指導して頂けるのですもの。人数が増えて当たり前です。皆張り切っていますから、また私たちの為に素敵な曲を作ってください」
団員の中には、ブラームスのお弟子さんのフリードヒェンや陽気なウイーン娘のペルタの姿もあります。純粋に音楽が好きな若いお嬢さんたちの美しい歌声や笑顔、にぎやかな笑い声や音楽への熱意は、ブラームスの心を癒し、元気を与えてくれました。
ブラームスはこの後もこの合唱団を指導して、「二つのホルンとハープの伴奏による女声合唱のための4つのうた」(作品17)「3つの宗教合唱曲」(作品37)「12の歌曲とロマンツェ」(作品44)など、今日でも女声合唱のレパートリーになっているような素晴らしい曲をたくさん作曲しました。
ハンブルク女声合唱団のメンバーはブラームスのことを心から尊敬していましたし、ブラームスもこの合唱団を誇りに思い大切にしていました。
合唱団の仲間は仲良しで、クララが訪ねてきた時に皆で遠足にでかけ、木の上に立ったブラームスの指揮で歌ったことは楽しい思い出になりました。
秋になって、ブラームスは再びデトモルトに戻る事になります。
「先生、来年もきっと私たちのところへ戻ってきてくださいね」
教会でのお別れのコンサートの後、合唱団は皆で銀の素敵なインク壺をブラームスにプレゼントするのでした。
しかし、デトモルトに戻ったものの、堅苦しい宮廷のしきたりにブラームスは我慢も限界です。頭の中には新しい音楽のアイディアが泉のように湧き出しているのですが、じっくり取り組む時間がありません。
「もっと自由に、音楽のことだけ考えて暮らしていたい」
そう考えたブラームスはデトモルトの仕事をこの年でやめ、身軽になって再びハンブルクへ戻って来ました。ハンブルクでは、ピアノ協奏曲や新しいセレナーデも演奏されて好評を得ていましたし、彼を必要とする合唱団もあります。
「やはり私は生まれながらのハンブルグっ子だから、この故郷で何とか仕事を見つけたいものだ」
ブラームスも26歳。そろそろどこかに落ち着いて暮らしたいと思うようになっていました。
しかし、せっかく戻った実家では、両親の仲が悪くて毎日けんかばかり。
この後も両親の問題はブラームスを悩ませることになります。
家にいても集中できないので、郊外のハムと言う所に部屋を借りることにしました。
一方、ブラームス先生が帰って来て合唱団のお嬢さん方は大喜びです。
彼は合唱団の指導の他に、ピアニストとしてクララやヨアヒムとも共演して活躍しますが、残りの時間はひたすら作曲に励みます。
手始めに、以前作曲した「セレナーデ」を4楽章から6楽章に増やし、編成もオーケストラ用にして「セレナーデ第一番」(作品11)として発表。
その他、「セレナーデ第二番」(作品16) 二つの「ピアノ4重奏曲」(作品25,26)「弦楽6重奏曲」(作品18)
そして、ハンブルク女声合唱団の為に作った合唱曲や歌曲などを発表し、ブラームスは作曲家として次第にその名を知られるようになってゆくのです。
その一方で、少し厄介な問題にも巻き込まれてしまいます。
この頃の音楽界では、リヒャルト・ヴァーグナーとフランツ・リストの二人が「新ドイツ派」と呼ばれて活躍していました。
特にヴァーグナーのスケールの大きな新しいスタイルのオペラは人々を熱狂させ、新しい音楽として大変注目を浴びていたのです。
「ヴァーグナーの新しいオペラ観たかい?」
「観たよ。素晴らしいね。音楽も舞台もストーリーも今までのオペラとは比べ物にならないくらいだ。
「ぼくみたいなヴァーグナーファンをヴァグネリアンというんだそうだ」
「それならぼくもヴァグネリアンだ。シューマンやメンデルスゾーンはもう過去の人だね。彼らの音楽はもう古い。地味で面白くないよ」
「そこへいくとリストの音楽は華やかで聴き映えがするね。ヴァーグナーやリストこそ新しい時代をリードする音楽家だね」
そんな声も聞こえてきます。
ブラームスも、ヴァーグナーの才能を認めていて、新しいオペラが出来れば必ず聴きに出かけていました。
しかし、後の世の私たちから見ても二人の音楽は水と油。
全く目指しているものが違います。今ではどちらも素晴らしい音楽として認められていますが、当時は多くの人が、新ドイツ派の音楽こそが時代を代表する音楽だと考えていました。
一方で、それに反発する人たちも居ました。
以前は、ワイマールでリストと共に仕事をしてきたヨアヒムもその一人です。
「もう、彼の派手な音楽にはついていけないんだ。
目新しい事に飛びついて、人々を驚かせるようなものが良い音楽なんだろうか。ベートーヴェンやシューマン先生の作ってきたドイツ音楽の伝統とはかけ離れている」
ブラームスもそう考えていましたし、実際その考え方を支持する人もたくさん居たのです。
音楽の好みはそれぞれです。
ただ、二人が何より我慢できなかったのは、この「新ドイツ派」を熱烈に支持して宣伝していたのが、シューマンが創刊して、大切にしていた「音楽新報」の編集長を継いだ人だったことです。
「『新ドイツ派』の音楽こそがこれからの音楽のすべてだというのはとんでも無い話だ」
そう考えたブラームスとヨアヒムは、友人のグリム、ショルツと一緒に「新ドイツ派」を批判する「声明文」を発表しました。
「ブラームスやヨアヒムは古いなあ。あんな退屈な音楽が良いと思っているんだ」
「いや、彼のいう事はもっともだ。ブラームスの音楽こそ正しい音楽だ」
この「声明文」は想像以上に大きな話題となり、ブラームスは「反・新ドイツ派」「古い音楽」の代表者というレッテルを張られ、「新ドイツ派」を支持する人たちからは眼の敵にされてしまいます。
そして残念なことに、この「争い」はブラームスに一生つきまとうことになるのです。