やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 19
第一楽章 シューマンの物語
18、 和解・オラトリオの年
1843年は、1月8日にシューマンの作品がゲヴァントハウスで演奏されるという幸せな出来事で始まりました。
そして、クララにもうれしい事がありました。
結婚以来連絡のなかった父・ヴィークから手紙が届いたのです。シューマンや自分に対するお父さんのひどい仕打ちを忘れたわけではありませんが、そこは血を分けた親子、クララにとってたったひとりの大切なお父さんであることに変わりはありません。
「自分に会いにドレスデンに来ないか?お前の夫が作った曲を見せて欲しい」
という、父からの手紙を読んでクララは喜びのあまり涙があふれました。
クララはピアニストとしての自分を育ててくれた父の恩を決して忘れていませんでした。ヴィーク先生もクララが可愛くないわけではありませんし、前からその才能を認めていたシューマンが作曲家として良い仕事をしている様子をみて、そろそろ仲直りする機会だと思ったのでしょう。
「会いに行っておいで。先生もさぞかしクララに会いたいと思っているに違いないのだから」
一時はヴィーク先生を敵のように憎んでいたシューマンも、快くクララを送り出し、父と娘は久しぶりに共に過ごす時を持ったのでした。
この年シューマンが取り組んでいたのはオペラです。オペラもまた多くの大作曲家が手掛けている大切な音楽のジャンルです。
シューマンは「楽園とペリ」という詩をもとに一年ほど前から作曲を始めていました。この詩は、東洋のどこかの国を舞台に、罪を犯した妖精ペリが最後には天国に迎え入れられるというお話しで、シューマンはいろいろと考えているうちに、この題材は劇であるオペラより合唱を中心としたオラトリオの方が合っているのではないかと思い始めました。
オラトリオはもともと宗教的な題材をオーケストラなどの伴奏を付けて、教会で歌う大がかりな合唱です。
しかし、シューマンは教会ではなく、普通の演奏会場で歌うオラトリオという新しい形でこの「楽園とペリ」(作品50 )を仕上げたのです。
このオラトリオは、12月に初演され大変な評判になります。それを聴いたヴィーク先生もシューマンを一人前の作曲家と認めたのでしょう、直接シューマンにも仲直りの手紙を送りました。
そして、シューマン夫妻はマリエと、春に生まれた二番目の女の子・エリゼを連れてクリスマスをドレスデンのヴィーク先生のもとで過ごすことになったのです。久しぶりの一家団欒。誰にとっても幸せなクリスマスでした。
しかし、その陰でクララは大きな心配をかかえていました。オラトリオが成功したと言っても、実際の収入はごくわずかです。生まれたばかりの赤ちゃんの居るクララは演奏活動ができず、家族が増えたシューマン家の家計は苦しくなるばかりです。
実は、この年の春からシューマンはメンデルスゾーンがヴァントハウスの中に作った「ライプチヒ音楽院」でピアノや作曲を教えると言う新しい仕事にも取り組んでいました。音楽院は後にドイツ初の本格的音楽大学・ライプチヒ音楽大学と名を変え、現在でも名門音楽大学として知られています。「花」を作曲した日本人の作曲家・滝廉太郎もこの大学に留学しています。
けれど、学校を開いてすぐはまだ生徒も少なく、また無口で内気なシューマンに「教える」ということは決して向いている仕事ではありません。
しかも、何かとシューマン夫妻の力になり、作曲のアドバイスもしてくれていた親友・メンデルスゾーンがライプチヒを去ってベルリンに行ってしまうことになり、クララの不安は尽きません。
「どうしたら良いのかしら。でも生活が苦しい事は決してお父さんには知られてはならないわ。何とかしなくては」
心細い思いを胸に、クララはひそかにある計画を立てていました。
※写真はライプチヒ音楽院