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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 20

第一楽章 シューマンの物語

19、病の足音

 クララの計画。それはロシアへの演奏旅行でした。

 3歳のマリエ、生まれたばかりのエリゼをシューマンの兄夫婦に預けて、シューマン夫妻はロシアに旅立ちました。
 この旅でクララは、自分の演奏を聴いてもらうだけでなく、シューマンの交響曲やピアノ五重奏なども広く多くの人に知ってもらおうと考えていました。

 二人は、1月25日にベルリンでメンデルスゾーンに会ったあと、現在のリトアニアやラトヴィア、エストニアの街々で演奏会をひらきながらロシアの都・ペテルブルグに向かいます。
 どこでも演奏会は大成功。貴族たちはクララを熱狂的に歓迎してくれました。しかし、電車も無い時代に氷点下30度近くまで気温のさがる極寒の地を馬車で進むのです。決して楽な旅ではなく、シューマンは体調を崩してしまいました。

 それでもようやくペテルブルグに着くと、その町並みの美しさに二人は旅の疲れも吹き飛ぶ思いです。ペテルブルグでクララはニコライ皇帝に招かれて、メンデルスゾーンの「春の歌」を演奏して大変喜ばれました。その後モスクワにも寄って二人が娘たちのもとへ帰ったのは5月も終わりのことです。

 シューマンは旅の間も、ゲーテの戯曲「ファウスト」に曲をつけるなどオペラを作る夢を捨てていません。
 ロシアではシューマンの交響曲も演奏されましたが、相変わらず注目を浴びるのは妻のクララばかり。
 中には、
「まあ、こちらがクララさんのご主人ですか。
 あなたも音楽をなさるのですか?」

 などと失礼な事を聞く人も居て、シューマンの心は大きく傷つき、精神的にも不安定になってしまいます。
 ようやく我が家にたどりついても、旅の疲れなのか体調は余り良くありません。とうとう長年大切に勤めていた「音楽新報」の仕事も、とても続けられないと人に譲ってしまいました。

「しばらく仕事を休まれたらどうですか?
 音楽から離れて温泉でゆっくりすればきっと回復しますよ。
 少し音楽以外の事をなさるとよろしい」
 夏になり、作曲もできないほど弱ってしまったシューマンにお医者さんはそうすすめます。
 その頃、クララも音楽院で教えるようになっていましたが、そのすすめに従って、シューマンを温泉地のカールスバートに連れて行くことにしました。
 しかし、いくら温泉に入っても一向に良くなりません。クララもシューマンも気持ちはふさぐばかり。シューマンは気分転換に音楽以外の事に取り組んでも、すぐに投げ出してしまうのです。
 ついには全く眠る事ができなくなり、死におびえ、絶望で涙にくれる夫をみて、クララもどうしたらよいのかわかりません。

「彼には音楽しかないの。だからこそ私は彼が好きなんだわ。
 彼が落ち着ける場所をさがしてあげなくては。」
 そう考えたクララは思い切ってライプチヒを離れ、ドレスデン引っ越すことにしました。環境を変えれば、シューマンの気分も変わるのではと考えたのです。実は、この時クララのお腹には3人目の赤ちゃんが居ました。クララ自身も落ち着いた環境で過ごしたいと思っていたのでしょう。

 1844年12月、クララはライプチヒでお別れの演奏会を開き、二人は長く住み慣れたライプチヒの街をあとにしました。シューマンの病がこの後もずっと二人を苦しめることになるとも知らずに・・・。


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