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やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 14
第一楽章 シューマンの物語
13 離ればなれ
18歳のお誕生日から約1か月後の10月15日、クララはヴィーク先生とナンニーと共にライプチヒを離れ、長い演奏旅行が始まりました。
途中立ち寄ったボヘミアで演奏会を開き、大成功を収めて自信をつけたクララは、12月ついにウイーンに到着しました。
ベートーヴェンやシューベルトが過ごしたウイーンは、音楽家たちにとって昔も今もあこがれの街です。この街で成功することは音楽家としても一流と認められることでもあるので、さすがのクララも、初めての演奏会前は不安と緊張でいっぱいになってしまいました。しかし、結果は興奮したお客様たちの熱烈な拍手で10度以上舞台に引っ張り出されるほどの大成功。その後もクララは演奏会を重ね、ついには皇后陛下の御前で演奏し「宮廷音楽家」という名誉ある称号も頂きました。いまやクララ・ヴィークの名前はウイーンでは知らない人が居ないほどの人気です。
「今日クララが弾いたベートーヴェンのソナタ、初めて聞いたよ」
「『熱情』という題が付いているらしいけど、確かにそんな感じだね」
「前回の演奏会ではバッハの曲を聴かせてくれたし、次にクララが何を弾いてくれるか楽しみだわ」
クララは、ウイーンでもまだ「新しい音楽」だったベートーヴェンやシューベルト、メンデルスゾーンの音楽や、忘れられていたバッハの曲を積極的にプログラムに取り入れ、それも評判になりました。
しかし、演奏会で嵐のような拍手を受けている時でも、クララの心にあったのはシューマンのことでした。
「ロベルト・シューマンさんの曲をご存知ですか?」
「いいえ、その方作曲家なの?聞いたことはないけど」
「シューマンさんの音楽はとても素敵なんです。ちょっとお聞きになってください」
クララは機会があるごとに、シューマンの曲を弾いて多くの人に知ってもらおうと努めるのでした。
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ドナウ川の洪水で被害を受けた人たちのためのチャリティ演奏会のためにウイーンにやってきたリストに会ったときもそうでした。
「あなたの事はメンデルスゾーンから聞いていて、是非お目にかかりたいと思っていたのですよ、クララさん」
超人的なテクニックとパフォーマンスで人気ピアニストだったリストも、女性ピアニストとして名高いクララに会えることを楽しみにしていたのです。
タイプの違う二人の天才ピアニストはお互いの曲を弾き合って刺激的な時を過ごしました。リストの迫力ある演奏にクララは圧倒されますが、それよりもシューマンの曲をどうしてもリストに紹介したくて『謝肉祭』を弾いて聞かせました。
「おお、素晴らしい。私が知っている限りで最高の作品だ」
と、リストにも最高のお褒めの言葉を頂き、クララは自分のことのように喜ぶのでした。
そんな離ればなれの恋人たちにとって、心のよりどころとなり、絆となったのは「手紙」でした。クララはヴィーク先生がクララから目を離す時を待っては手紙を書きます。時には立ったまま書き、いつお父さんが部屋に入ってくるかびくびくしながらも手紙を書かずにはいられません。違う名前を使ったり、友人やナンニーの手を借りたりして二人はひそかに手紙をやりとりするのでした。
しかし、手紙だけではなかなかお互いの気持ちを伝えきれません。会って話せば何でもない小さな事が大きな誤解を生み、時には相手を信じられなくなったり、もう自分の事など何とも思っていないのではないかと思ったり。
相手からの返事を待つ間、どれだけ不安な夜を過ごした事でしょう。
二人の間に交わされた多くの手紙からは、そんな恋人同士の心のすれちがいや、会えない事の切なさが伝わってきて胸を打ちます。
それぞれの場所で生活しながら、不安な日々を過ごす二人・・・。
そのうち、シューマンの悪口を嫌というほど聞かされ、結婚しても決して幸せにはなれないとヴィーク先生から言われ続けたクララは、次第に結婚できたとしても本当に今の二人の収入で暮らしていけるのか心配になって来ました。
また、ヴィーク先生はクララにとってはかけがえのないお父さんであり、すべてを教えてくれた大切な先生でもあります。自分がピアニストとして活躍できるのも、すべてヴィーク先生のおかげであることをクララはよくわかっていました。
シューマンのことも、ヴィーク先生のことも心から愛しているクララは、二つの愛の板挟みになって悩むのでした。
一方ライプチヒのシューマンは、クララのウイーンでの成功を喜びながら、取り残されていくような不安を感じずにはいられません。しっかり者のクララが将来のお金の心配をすることや、父親であるヴィーク先生のもとを離れられないことにいらだち、時には感情的な激しい手紙をクララに送る事もありました。
そんな、燃えるようなクララへの想いは、素晴らしい名曲を生み出す力になり、出来上がったピアノ曲はクララとシューマンを結ぶもう一つの絆にもなりました。
クララを想い作曲するシューマン。
そして、シューマンを想いその曲を演奏するクララ。
クララはシューマンの曲を誰よりも理解して、シューマンが望むように演奏することが出来ました。離ればなれになって居ても、二人は音楽を通してお互いの心を通わせることができたのです。音楽でなら、手紙のように心がすれちがってしまうことも無いのでした。
「ダヴィッド同盟舞曲集」(作品6)の後に作曲された「幻想小曲集」(作品12)「子どもの情景」(作品15)「クライスレリアーナ」(作品1)など素晴らしいピアノの名曲の数々は、こうしたクララとの熱い恋から生まれています。
「君と君への想いを主役に作曲したんだ」
という手紙と共にクララへ届けられたのが、最高傑作の一つであるピアノ曲「クライスレリアーナ」です。
この曲は、作家E・T・Aホフマンの評論文に出てくる「楽長クライスラー」をモチーフに作曲されたと言われています。
テンポが速く激しい曲と、ゆっくりとしたロマンチックな曲が交互に全部で8曲の比較的短い曲からできていて、芸術家であるクライスラーが気持ちを昂ぶらせたり、陶酔したり、激しい想いに身を任せたりする様子を描き出しているように聞こえます。
クライスラーは、作家のホフマンの分身でもあり、シューマンの分身でもありました。またもシューマンは文学と音楽の手を結び、それまでにない感性で、素晴らしい作品を作り上げたのです。シューマンはこの曲を尊敬するショパンに捧げています。
どの曲もクララのお気に入りでしたが、特に心を打たれたのは「子供の情景」です。
この曲集は「見知らぬ国から」「こわいぞ」「鬼ごっこ」「おねだり」そして「詩人は歌う」など短いけれど可愛い13曲から成り、子どもたちの世界がつづられています。
「まあ。これは・・・私たちの思い出だわ」
そう・・・。
面白いお話しや怖いお話を聞かせてみんなを楽しませてくれたヘル・シューマンと、まだ恋も知らず幼く無邪気だったクララと弟たち。
幸せな思い出がそこには詰まっていました。この曲集の中で一番有名なの曲が「トロイメライ」で、一度は耳にした方が多いでしょう。
「トロイメライ」とは「夢」のこと。夢のように甘くやさしい子供時代を思い出し、クララは涙をこらえながらこの曲を弾くのでした。
クララとの結婚には絶対反対のヴィーク先生も、シューマンの作曲家としても才能は高評価していましたので、クララが演奏会でシューマンの曲を弾くことには反対しません。
そして、クララのウイーンでの成功に気を良くしたのか、ライプチヒ以外で暮らすのなら結婚を許しても良いと、クララに約束してくれたのです。
すっかりウイーンの人気者になったクララは、このウイーンでシューマンと結婚生活をおくることを夢見るようになりました、
こうしてクララはウイーンでの成功の喜びと将来への希望を胸に、5月14日、7か月にわたる演奏旅行を終えてライプチヒに帰ってきたのです。