やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス34
第四楽章 ブラームスの物語
4、 ウイーンへ
「先生、今年こそウイーンへいらっしゃいませんか?」
1863年の夏、相変わらず決まった仕事もないまま、ハンブルクで作曲を続けるブラームスに、そんな言葉をかけたのは、ハンブルク合唱団のメンバーの一人・ペルタです。ウイーン育ちのペルタは以前からウイーンの自慢話をしていました。
「音楽の都と言えばやはりウイーンですよ。ベートーヴェンやシューベルトが過ごした街ですし、何と言っても伝統がありますからね。
街中に音楽があふれていて、みんなワルツを踊っているの。
申し訳ないけど、ハンブルクのような港町とはまるで違います。
先生のような立派な音楽家にはウイーンの街がお似合いですわ」
「そうだなあ。しかし、君が故郷のウイーンが自慢であるように、私もこのハンブルクが気に入っているんだよ」
と、ブラームスは、はじめ余り乗り気ではありませんでした。しかし、結婚してウイーンに戻ってからもペルタは熱心にブラームスを誘います。
「ウイーンにいらっしゃれば、また新しい道も開けますよ」
友人の歌手・ルイーゼ・ヴィトマンもいっしょになって誘うので、ブラームスは思い切って出かける事にしました。
「先生!ようこそウイーンへ。ようやくいらして下さって本当にうれしいわ」
ブラームスを出迎えたペルタとルイーズは大喜びで、さっそくウイーンの音楽界にブラームスを紹介します。
そのおかげもあって、11月には自作のピアノ四重奏曲を演奏することも出来ました。
そして、ウイーンの音楽界は大きな拍手をもってブラームスを歓迎したのでした。
「ベートーヴェンが酒を飲んだ同じ酒場でワインを飲むことが出来るんだ!
思っていた以上にウイーンは素晴らしい。
招いてくれたペルタには感謝しなければ」
と、ブラームスはご機嫌です。ペルタ夫妻とはその後も親しい付き合いが続き、有名な「子守唄」(作品49-4)はペルタに二人目の男の子が生まれたときプレゼントした曲です。
しかし、そんなブラームスの明るい気持ちを打ち砕くようなニュースが飛び込んできました。ちょうど空席になっていたハンブルク・フィルハーモニー協会の指揮者が、友人のシュトックハウゼンに決まったというのです。
ブラームスはこの指揮者の仕事につきたいと強く願っていましたし、周囲の人々にも、当然ブラームスが選ばれるだろうと思われていたのです。
残念な事に、彼が選ばれなかった理由は、「貧しい家の出身」だったからにすぎませんでした。
「信じられない話だよ。これは音楽史に残る屈辱的な事件だ」
と、ヨアヒムも自分のことのように腹を立て、抗議の手紙まで書きました。ブラームスは愛する故郷から裏切られ、すっかり落ち込んでしまいます。
「それが私にとってどれほど大きなショックだったか、おわかりにならないでしょう。私がどれほど生まれ故郷にとどまる場所が欲しかったか。
それがかなわないのなら私はどこへ行けばよいのでしょう」
ブラームスはクララへの手紙のなかでそう嘆いています。
しかし、そんなブラームスにウイーンの街や人々は暖かく、次第に友人も、支持してくれる人も増えて、ウイーンは彼にとって居心地の良い場所になってゆきました。
翌年の1月に開いた2回目の演奏会も大好評で、特に有名な音楽評論家ハンスリックが
「ブラームスはウイーンを去るべきではない」
と、言って後押しをしてくれたのも嬉しいことでした。
そして、その年の秋。
ハンブルクに帰っていたブラームスに今度はウイーンから嬉しい知らせが届きました。
ブラームスを「ウイーン・ジングアカデミー」の指揮者に招きたいというのです。
「ジングアカデミー」は「楽友会協会」と並び、ウイーンの音楽の中心になって演奏会を開いている音楽団体で、指揮者はただ指揮をするだけでなく、どんな演奏会を開くかということから決めなくてはならない責任のある立場です。
ブラームスは迷いますが、この申し出を受けて再びウイーンへ向かいました。彼は、それまであまり取り上げられなかったバッハの作品などを取り入れた珍しいプログラムで演奏会を開きましたが、お客様の反応はもう一つ。
結局この仕事をわずか半年、1シーズンでやめてしまいました。
ブラームスの音楽家としての戦いはもうしばらく続くことになります。