手続きや片付けをひとつずつやっていく
<スマホの解約>
今日は父のスマホ解約をしました。ショップ窓口で色々と手続きをしていたら、iPhoneがまだ支払い中で4万円の返済の残りがあることがわかり、母がその分を支払いました。そうか、そういうこともあるよな。父母のスマホ、自宅の電話とネットの払いがまとまったプランだったものから、父の分を抜いての契約に切り替える。1時間くらいの時間を要しましたが無事終わり、またひとつ終えたとひと安心です。
<片付け作業>
そうやってひとつひとつを片付けていきます。今日の日中、僕はリモートワークを続けており、母は庭にある物置の片付けをしていました。少しずつではあるけれど片付いていく。父が残していた工具や段ボールなど、どうやらこの先は使わないだろうと思われるものをコツコツと捨てていく。
片付けはこの先ずっと続くことが予想されます。無下にバンバン捨てていけることでもない。ひとつひとつを確かめながら、それは亡くなった父と対話するようでいて、その分の時間がどうしても必要です。その行為はずっと父と一緒に居た母がしていくのですが、モノによっては手を止めてしまうものもあり、時間がどれくらいかかるのかは全く分かりません。が、そうやって残されたモノと対話をしながら捨てていけることは、現代においては幸福であるかもしれません。
不意に一人暮らしの親が亡くなったりすることで、家に溜まった遺品と対峙し、途方に暮れることもあるでしょう。手も付けられずに遺品業者にお願いすることもあるでしょう。少なからず今の高齢者の世代は「モノがない」時代に生まれ育ち、高度経済成長期にモノが増えていくことに豊かさがあり、そのおかげもあって、多くのモノがあったりします。
モノを手に入れる(買う)ことは、その分モノに対して責任を持つことであるな、残ったものをどうしたらいいのかに、残された人は思いを巡らせなければならないな、などと、父の遺品を見ながら思います。ただそこにあるモノたちは、父が望んで手に入れたもので、父は何かしらそのモノを使って新しいものを生み出したりして、それをわが子(僕ら)に伝え残してくれた。その作用自体は捉えられないものであり、残されたモノからだけでは図り知れません。
ただ時折、残されたモノ自体に自分の記憶がリンクすることがあり、そういえば父がこの道具を使っていたのを覚えている、といったこともあります。5kgのダンベルがあって、父はよくそのダンベルを使ってトレーニングをしていました。あるいはエキスパンダが出てきたり(今もあるんでしょうか?)、専門的な大工工具が出てきたり(私は使えません)、そんなモノの数々から呼び起こされる記憶があります。
<明日以降>
今日は6月16日で、いったん明日17日に妻子が待つ東京の住まいに戻ります。そうすると母が一人、父が亡くなってのちに本当に一人になってしまう。そのことが少なからず心配であり、きっと本人の予想以上のさみしさがやってくるのだろうと予想します。
翌週にはまた仕事の段取りをつけて帰省するつもりでいますが、今の母の様子をちゃんと把握し、翌週の様子はどうなのか。たった1週間ではありますが、注意しておきたいなと思います。