小さな音に灯が宿るピアニスト/ブルース・リウの演奏を、フランクフルト放送響の公演で聴く
2024年10月16日、フランクフルト放送交響楽団の来日公演(@ザ・シンフォニーホール)に行った。個人的なお目当てはソリストのブルース・リウ。2016年から仙台国際音楽コンクールで頭角を現し始め、ショパン国際ピアノコンクールでは見事覇者になったピアニストである。
この日、彼が演奏したのはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』。第1楽章時点では、正統なアプローチでありなつつやや音も表情も固く、ショパコンにあったような前進性が落ち着いているように感じたけれど、意外な方向からハッとさせられたのは第2楽章。粒だちよく洗練された音は、まるで静かに祈りを捧げているようで聴き惚れた。まるで人間が理知的かつ計算して出した音ではなく、遥か上の天が音を吊るしてコントロールしているのではないか、と思った。一音一音の煌めきに、FAZIOLIの素材ならではの打鍵の音を感じたのも粋だった。
もちろん、その後に繰り広げたノリのよい第3楽章もワクワクしたけれど、個人的にはアンコールのショパン『幻想即興曲』に度肝を抜いた。陰鬱な曲想であるはずなのに、聴き手の手中におさまらないインプロ的な自由さと、どこか洒落たエスプリを感じる。
『幻想即興曲』の演奏においても、肝はやはり中間部であった。素朴で抒情的な旋律が何度も繰り返されるたびに表情が変わる。そして、だんだん静かになっていく。それは萎んでいくというよりも、大切な何かを伝えるために声をひそめるイメージ。だんだん音が小さくなっていくから、伝えたいこともだんだん大切になっていく気がしていく、といったふうに。けれども冒頭のパートが回帰すると、徐々に自在さを取り戻し、引力に寄せ付けられるかのようにあっという間にクライマックスへ。すばらしかったし、心なしか本人の表情も『皇帝』に比べていきいきとしていたように思う(ボーナストラックであるアンコールという特性によるものかと思うが)。
いいなと思ったのは、意図的に音楽をコントロールしているというよりも、心ゆくままに展開していくのびやかさだった。やはり理知的とか、計算的とか、そういったものではない。彼の内側から湧き上がるものなのか、外部の引力に引き寄せられるものなのか、とにかく理性の前にある何かに引っ張られてめくるめく音が展開するような、変幻自在さがある。
今回、ブルース・リウの演奏ではどちらも緩徐部分や静かなパートにより心を惹きつけられた。思えばショパコンのときも、緩徐の第2楽章や、第3楽章で弱音のままオーケストラと融和する瞬間に鳥肌が立ったのであった。音をひそめればひそめるほど、何か大切なものが宿っているような錯覚がした。
ブルース・リウといえば、ラヴェルの『鏡』の音源もよかった。
この演奏の、冒頭部分の美しいこと。ミクロの粒子=音がたくさん集まり、小さくともエネルギーのある波が生まれたかのような演奏に耳を奪われたのであった。
本来、ピアノ(に限らず楽器全般に言えることだろう)は、弱音こそ難しいはず。一面的になりやすいし、音の中に芯や実体が生まれづらい。ただ弱々しいだけの音になってしまえば、演奏の説得力は5割減である。しかしブルース・リウの音には実体が伴っていて、静かであろうとも確かに燃える灯火のような、霊的な何かが宿っているように感じる瞬間がある。そして、10月16日の公演で、その瞬間に立ち会えたのは幸福なことだった。
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