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何もしたくない休日に、ケフェレックのサティを聴く――8月を振り返りながら

目まぐるしい8月だった。

気の知れた仲間とのタコパに始まり、京都の貴船神社に行っては人混みに揉まれ、島根県に訪れてひとり涙し(これについては改めて書きたい)、お盆が明けたらすぐに東京に行っては連日いろんな人と飲み明かし、最終日にいたっては朝まで飲んでその足で大阪に帰り、その日の夜も京都でお仕事の先輩方との日本酒会に参加し、その足で実家に帰るという毎日。時間や場所の感覚が狂い生活はめちゃくちゃで破壊されていたが、楽しい日々だった。そのなかでも必死に会社の仕事も個人の原稿仕事もやっていたのだから、素直に私はえらいと褒めたい。

ひさしぶりに何もない休日を迎えられた8月末のある日、ひとり静かに部屋にこもっていた。生活においてじっくり時間をかけて考えなければいけないことが多くて、正直へとへとだったので、ひとりで何も考えずに寝そべっていたいと思った。

西日が強く差して、その明るさと暑さが自分の精神状態にフィットしなかったので、遮光カーテンをしっかり閉じた。すると部屋は暗くなり、テレビもつけないでほぼ無音の状態にいることが落ち着かなくなってしまい、心の均衡を保つために何か音楽を聴こうと思った。

何も考えたくない、でも無音では寂しい、でも忙しない日々を送った自分を慰めるような静かな音楽がいい。発音のしっかりしているベートーヴェンやブラームスではない。玉手箱のように刺激を与えてくれるモーツァルトでもない。感情を表出するシューマンやショパンも少し違う。整然としているものの生真面目さのあるラヴェルやバッハも、悪くはないが気が張ってしまいそう。

そう考え、選んだのはサティのピアノ作品だった。演奏しているのは、アンヌ・ケフェレックだ。

私は心を引き締めたいとき、ケフェレックによるスカルラッティのアルバムを聴くことが多い。が、この休日は心をキュッとさせたいわけではなく、もちろんやる気があるわけでもなく、ただゆったりと時間を思うがままに過ごしていたいだけだったので、形式ばっているわけでもなく、聴き手を急かすこともなく、ただその瞬間に進む時の流れをゆるりと過ごすことに寄り添ってくれるような、気だるさのあるサティをセレクトしたのだった。

私は彼女の演奏が好きだ。気品があって、でも遊びもあって、そんないろんな表情の裏に強い芯がある。

ケフェレックの演奏は、強さも弱さも、硬さも柔らかさも、焦りも諦観もあるものの、どんな音色も共通して「透明」である気がする。正直であり、誠実である。まるで嘘のつけないクリスタルのように感じるのだ。もちろん、聴き手によっては「これは紫では」「これは鮮やかな赤だ」と思うパターンもあるだろうが、その源流には真っ透明な清水(せいすい)がある気がしてならない。それは、サティのように淡い色や、原色ではないカラーの似合う音楽にも当てはまる。

彼女の音に触れる時間は、ただただ至福だった。

聴き終えて改めて、気づいた。私は混じり気のない時間を欲していたのであり、それには透明なケフェレックの音が必要だったのだ。それも、ほかの作曲家ではない、時間感覚のゆったりしたサティの作品で。

月末は、いろんな変わり目を感じる時期でもある。特に9月になると、途端に「秋」が感じる瞬間も多い。すると、夏に起きたことを振り返り、総括したくなるものだ。

うれしい言葉をもらった。家族と一緒に過ごせた。うまくいきそうだと思っていたことがうまくいかず落ち込んだ。たくさんの人と会い、たくさんの会話ができた。いろんなおいしいお酒に出会えた。ここ1年いただいていたお仕事を、また継続できることが決まった。いろんな町を訪れ、その地の空気を吸いながら無数の景色を目の当たりにできた。

喜怒哀楽+αの感情はカラフルなもので、それらを経験した季節を締めくくるにあたり、色のある音楽は不似合いだ。だからこそ、いま、目まぐるしい季節を経験した心に寄り添ってくれるケフェレックの演奏があって、よかったと思う。

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