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バッハ エピソード16 イタリア音楽体験

バッハは、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校を卒業後、1703年3月から9月までの半年間、ワイマール公ヴィルヘルム・エルンストの弟である、ヨハン・エルンスト公の小さな宮廷楽団にヴァイオリニストとして就職しました。
その時の雇い主ヨハン・エルンスト3世の居城は、ワイマール公の領主城館ヴィルヘルムスブルクに隣接する「赤い城」と呼ばれた館でした。

5年後、1708年にワイマール公の宮廷音楽家として赴任した時の「赤い城」には、ヨハン・エルンスト3世の死後、長男のエルンスト・アウグストが第二領主として住んでいました。バッハは彼にクラヴィーアを教えていたことで親しくなり、「赤い城」へも頻繁に行くようになります。

エルンストとその弟のヨハン・エルンスト公子は大変な音楽好きでしたが、特にエルンスト公子は少年時代から非凡な楽才を発揮し、天才貴公子として知られていました。1711年から1713年(15歳から17歳)にかけてオランダのユトレヒトに留学した際に、当時、楽譜出版の中心地でもあった現地で大量の楽譜を買い込んできます。エルンスト公子は協奏曲を鍵盤楽器用に編曲をすることをバッハとヴァルター※に依頼します。

※ヴァルター:バッハの母方の親戚にあたる音楽家で市の教会オルガニスト・作曲家。エルンスト公子の音楽の指導を行っており、バッハとヴァルターはお互いに影響を与え合っていました。

バッハは特に当時大ブームを巻き起こしていたヴィヴァルディの協奏曲10作品の編曲に取り組みます。

こうして、バッハは新しいイタリアの協奏曲の様式を身につけていったのです。
この手法は、名作ブランデンブルク協奏曲やヴァイオリン協奏曲として実を結ぶことになります。

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